氏生活 2021-9月

日記/diary




 

私生活 2021

9月-September 2021

30th プロット作り

今日、氏は長編のプロットを半分くらい進めた。ぼんやりと全体像が見えているのだけれど、まだ各所詰める必要がある。矛盾点もちらほらと出てきそうなので、調整しつつ続きはまた明日。プロットはできる限り短くしたいのだけれど、シーンによってはどうしても長くなってしまう。というのも詳細まで思いついてしまい、それを忘れまいと全て記してしまうのだ。こうなると、ところどころ本文を書いているのと同じような文章を書いてしまう。だから余計にプロット作成には時間を要してしまう。プロットは最大でも1章あたり1ページ(40×40原稿)以内と考えている。だから各所箇条書き程度にして次々に進めたほうが良いとはわかっているのだけれど、どうしてもシーンの詳細が思い浮かぶとノリノリになって書いてしまう。昔の癖(蛇足執筆法)が全然抜けない。まぁ思いつくというのは良いことなのでヨシとしよう。

29th 受賞のお話の再編成

氏は以前ブログにアップした『受賞したときのお話』の記事を再編成することにした。約2万5千文字程度の記事である。それを書き直したり削除したり加筆したりし、完成させた。これにて受賞時のお話は完結としよう。
氏の病気はまだ完治したわけではないのだけれど、病気をしたことでまた小説を書こうという気になった。理由は身体を自由に動かすことができなくなったことで、動かなくてもできることをしたくなったから。これまで何年も書こう書こうと思っていたのだけれど、ちょっと書き出してはやめてということを繰り返していた。他にやりたいことがあったり、エンタメ的誘惑に負けてついぞ完成させることがなかった。よってここ数年はブログの記事を書いては消して程度の文章を書いていたにすぎない。今回は、真面目に、また昔の新人賞に投稿していたころの感覚を思い出してちゃんと書こうと思う。そういう意味でも『受賞したときのお話』を再編成することは有意義だったと思う。
氏はさっそく新作制作に取りかかる。ファンタジー長編の構想を考える。シリーズ化できるような世界設定がいいなと思い、そういう方向で妄想を進める。まずは人物名やキャラ設定を書き出す。キャラによっては簡単なエピソードや掛け合いも同時に思いつくので、物語とは別に書き留めておく。次に、物語に登場させる地名や小物、その他造語などを考える。それからこの物語に必要になりそうな事柄について調べものをする。こうしてプロットを立てる準備を整えたところで今日のところはタイムリミット。明日はこれらを使い、プロットを書き進めよう。

28th 不調からの手術

先週18日土曜日。
氏の体調が悪くなるも、世間は3連休の幕開け。病院のお電話はお留守番。よりにもよってなぜこんなタイミングなんだかと氏は項垂れる。仕方がないので横になって我慢。食欲がなくなってくれたのだけはありがたきこと。お布団に横になりながらノートパソコン作業をしようとするも、病的不安に思考が浸食され何も手につかない。ただただ3連休が明けるのを待つばかりであった。
19日日曜日。
氏の体調は緩やかに悪くなっている。もしかしたら寝ていればマシになるかもしれない、という淡い期待はあっさり霧散す。残念無念である。氏はこの日もお布団に横になって「我こそは石なり」の心意気で連休が明けるのを待つ。それだけの1日。食欲はなく、この2日間で口にしたのは飲み物だけである。ちなみに言葉も一切口にしていないという暗鬱っぷり。
週明けから仕事に出れそうな気がしないので、会社の上司にその旨をメールで伝えておく。
20日月曜日。
敬老の日。氏にご老人を敬う余裕などなく、「あと1日あと1日なんだー」と心の中で連呼する。氏の症状は相変わらずである。しかし、あと1日でお医者さまに看てもらえると思うと気持ちが少し楽になる。横になったままとはいえ電子書籍を読んだり、動画を観るくらいの気分にはなれた。しかし集中力皆無であるため数分で休憩。ぼぅーっとしては自らの体調不良を嘆き、また端末操作を再開する。数分後、またぼぅーっとして今度は「あぁ私は今後どうなってしまうのだろうか、爆発してしまうのだろうか」などと被害妄想に囚われため息をつく。そして端末操作を再開。これを何度何度も繰り返す。残念ながら氏が悟りの境地に至ることはなかった。氏はさすがに何か口にしなければと思うも用意するのが億劫だった。そのため野菜ジュースとマミーに加え体内に貯蓄してある皮下脂肪で栄養分を賄うことにした。病気になって持てる数少ない希望のひとつに『回復後、体重計に乗る楽しみ』がある。ただしこれは日頃から皮下脂肪を貯蔵している者に限る。氏はこの頃食べ過ぎていたので、該当する。
21日火曜日。
氏、念願の平日朝。病院に電話をして事情を説明する。しかし予約がいっぱいなので明日まで待てないかと言われてしまう。「そこをなんとか~」と虚弱な声音を意識してお願いする。しかし「お願いされても看る余裕がないのでこちらもどうしようもない」とキッパリ断られる。氏は連休中の被害妄想の中でこの可能性があることを考えてはいた。しかし対策できることでもないので「運だよなぁ」と思うことしかできなかった。本当に悪い方の予想が当たるとは……。良いことは続いては起こらないが、悪いことは立て続けに起こるものである。仕方がないのでもう1日だけ待つことにした。ほんともうガック氏。
さて、電話で診察の許可を頂けるかわからない段階で、氏は受付開始直後に病院に駆け込めるよう準備をしていたのだけれど、その準備の意味がなくなった。要するに身支度を整えた状態で手持無沙汰になってしまったのである。ではせめてもと固形物を口に入れることにする。氏は温うどんとアイスをチョイス。とても美味しく、落ち込んだ気持ちを少しやわらげることができた。しかし、しばらく何も与えなかった胃がびっくりしたのか、お腹もやわらげてしまう。アイタタタ。
氏はまた横になって電子書籍と動画と被害妄想と虚無のサイクルに入る。
22日水曜日。
氏は思う。もしもこの日お医者さまに看てもらえなければ、自分の身体は手榴弾のごとく爆発して酷いことになってしまったことだろう、と。氏は身体がなんとか持ち堪えたことに安堵し病院へと向かった。待合室には先客が何人もいた。氏は人前では見栄を張る矮小な男ゆえ、平然とした挙措で立ち振る舞う。スタイリッシュに紳士的に受付を済ませる。そして椅子に優雅に腰かけ電子書籍を読む。もしも片手にコーヒーでもあればとてもサマになっていたことだろう。でも本の内容はいつもの半分も頭に入ってきていない。自分の名前が呼ばれるのを今か今かと待ち望んだ。
1時間弱くらいで診察室へと招かれる。先生に症状を告げると、すぐに察しがついたらしく日帰り手術が決定した。血液検査なんかの事前調査を済まし、症状の原因となっている患部にメスが入る。氏の身体にもものすごい力が入る。「力抜いてくださいねぇ~」との指示に、いや抜いているんだけれどと思いながら、全力で汗と血管を浮かび上がらせていた。「大きく息を吸って吐いて~」などの指示に従うことで、自分が如何に力んでいたかを自覚する。また、本能的に力が入ってしまっているため、力を抜こうとしても抜けなかった。いつ手術の激痛が襲ってくるのかわからないからこそ、そうなってしまう。結局、痛かったのは局所麻酔の注射だけであり、メスで切られている感覚はもちろん触れられていることもわからなかった。処置はすぐに終わった。帰宅後の患部のケアの説明や薬、今後の予定などを聞いて帰路に。
数時間後に麻酔が切れて患部が痛くなる。結局、またしばらくお布団に横になってすごすことになる。
23日木曜日。
秋分の日。氏は秋が大好きである。氏はお医者さまの支持どおり患部のケアを施す。血のついたガーゼを目にしたら痛みが倍増するような気がして汗が噴き出てきた。氏は、極度の血液恐怖症なのである。「痛くない痛くない」と心の中で絶叫を繰り返し、なんとかケアを完了する。動くと痛いのでまた横になる。食欲はなく、野菜ジュースとマミーと皮下脂肪で栄養を賄うのは相変わらず。
24日金曜日。
病院に行って術後経過を看てもらう。ビビり症の氏である。早く動くと痛むし、痛むと傷口が悪化するような気がするので、常に緩慢なヨチヨチ歩きである。すぐに診察は終わり、以後、日数の間隔をあけて通院することに。
帰路、野菜ジュースやマミーなど食材を買う。こういう時に限って、他の買物客が患部に激突してくるという妄想が迸る。氏の周囲に対する警戒心はサバンナの草食動物を凌駕していたことだろう。幸い、誰ともぶつかることなく自宅に逃げ込むことができた。
25日土曜日。
痛みというのは自分の過去を反省させる効果がある。
氏は負の自問自答へと入った。
この痛みはいつのどんな悪事の代償なのだろうか、と。なぜ自分がこんな痛みを味合わなければならないのだろうか、と。
確かに氏は聖人君子ではない。怠け者でありビビり症でありアガリ症であり、そのくせ見栄っ張りで愚か者である。しかしそれで誰かに迷惑をかけるようなことはない。そもそも氏は他人とはなるべく係わらないように生きている。もちろん偏屈な氏を相手に他人も係わりたくないことだろう。そんなわけで氏は世間的には人畜無害である。世間一般が忌避するような悪事とは無縁なのである、たぶん。
氏は思う。自分はこんな仕打ちを受けるほどの悪事はしていないはず。ならば、もっともっとこんな痛みを味わうべき悪人はたくさんいるはずだ、と。氏はそう思いながら同時に職場の同僚の名前を思い浮かべていたりする(笑)
しかしながら他人に直接的に迷惑をかけたり、苦痛を与えるような人に限って元気一杯で病気とは無縁であったりする。
世の中とはそういうふうにできているので、今さら不公平だなどと声をあげるようなことでもない。比べても仕方がないこと、と諦めるしかないのである。
氏は、このような思考経過を辿り、自分自身についてだけに焦点を当てて考えることにした。
怠惰な生活習慣をなんとかせねばな、とすぐに反省することができた。

17th 『人体工学に基づいて』という売り文句

『人体工学に基づいて』という売り文句の商品をよく見かける。最近では椅子を買うときやイヤホンを買うときに見かけた。しかしながら、氏は逆に問いたい。そもそも人間が使う人工物で、人体工学に基づいていない物なんてあるのだろうか? と。
簡易的な椅子だって『椅子』の形をしている以上、どんな物でも人間の身体の形が考慮されている。もし『椅子』という名前が付けられているのに、座れないものだったらばそれは『椅子』とは呼べない。座り心地が悪かろうとも座れる椅子であるのならば、それは必ず人体工学に基づいて設計されているのである。わざわざ宣伝文句にするほどのものではない当たり前のことなのだ。
ではなぜわざわざ『人体工学に基づいて』なんてキャッチコピーをつけるのかと言えば、『現代の最高峰の緻密な計算を施しました』というイメージを与えたいのだろう。なんとなく製作者が現代科学の最高峰の情報を持っており、それを駆使して作ったという印象を与えられる。ならばはっきりとそう言えば良いのだけれど、言えない事情がある。なぜならばそんな最高峰の科学技術が施された物ならば、一般庶民が気軽に手を出せるような値段にはならないからだ。よって『買い手に勝手にイメージさせる言葉』というところで、そういう言い方を利用しているのだろう。クレームを言われても、自分たちはそんなことは言ってません、と白を切ることができるのだから。
実際『人体工学に基づいて』と明言している商品も、していない商品も似たような値段帯ならば劇的な差はないなぁというのが僕の感覚である。善し悪しはただの相性だなぁ、と。

16th 『テーマ』とは

どのような事柄に対しても『テーマ』を持たせるということは、範囲を限定するということである。
『テーマテーマって言われるけど、一体何を指して言ってるの?』という疑問には、『その事柄において範囲を限定しているモノ』と答えることができる。
物語において『テーマ』は大切だと言われる。実際、『この作品のテーマがわからない』という評価は、その作品を否定的に捉えているときに言われる。それくらいテーマは重要視されている。しかし氏にとってはテーマがないということは『範囲を限定していないだけのこと』であって、それが物語の善し悪しを決めるものではないと感じている。売れっ子作家さんの中にもテーマなんて考えずに書くという人も少なくない気がする。テーマはあとから読者が勝手に『後付け』しているだけ、と言う人もいる。ただし書き手本人は書きながら『読者はこれをテーマと思うんだろうなぁ』くらいの想定はしながら書き進めてはいる。それを「作者はこれを言いたかったんだ」と読者が感じて満足すれば作品としては成功だと。要するにテーマが大切かどうかは人それぞれという程度のこと。制作を推進するために必要なタイプの作者には必要であり、そうでない作者にはむしろ邪魔になるだけというだけのこと。
ではなぜそこまで『テーマ』が重要視されるのかと問われれば、テーマがはっきりしているほうがユーザーが理解しやすいからだ。理解しやすいことが多くのユーザーにとって善し悪しの基準になっているとも言える。書き手目線で言えば、テーマを設定するということはユーザーに対する優しさのようなものなのかな。

15th 誰それらしさ

●●らしい、とはなんぞや?
たとえば、田中くんの行動の結果に対して「ほんと田中くんらしいや」との評を下すとき、どのようなふうにその物事を捉えているのか。
誰かが完璧な結果を出したときにはあまり『誰それらしい』という評価の仕方はされない。どちらかというとややおっちょこちょいであったり、お馬鹿であったりするときに使うことが多いような気がする。失敗に対して使うことはまずないので卑下する意味の言葉ではない。また逆に、完璧な結果に対して使うこともない。ではどんなケースで使われることが多いのかと言えば『良い結果ではあるけれど完璧な経過を辿っていないとき』だったりする。たとえば、近鉄線で大阪へ向かえば数十分なのに、JRを利用したから1時間以上かかってしまった。聞けばその発想はなかった、とあっけらかんとしている。こんなときに『もぅ、章乃氏らしいなぁ』と笑うのである。大阪に行くという目的は達成しているが、そこまでの道のりが常道ではなかった。このことから『誰それらしい』というのは結果そのものは悪くない、しかし道のりがちょっと違うときに使うものらしい。
昨日の『自分らしさ』と比較すると『誰それらしい』という評価は、見ている地点が違うということがわかる。
果たして『自分に甘く、他人に厳しい』という価値基準が、実は『らしさ』だったりして。

14th 自分らしさ

自分らしさとはなんぞや?
あとから自分の行動を思い返したときに自分らしかったか自分らしくなかったか、という評価を下す。たいていの場合、良い結果を出していれば『自分らしかった』となり都合の悪い結果であれば『自分らしくなかった』となる。上手くいかなかったことを嘆いているときに『見事なまでに自分らしかった』という評価を誇ることはまずない。つまり『自分らしい』というのは言い換えれば『よくできました』という程度のことなのかなと思われる。
しかし氏の場合は性根が怠惰であることが『自分らしいこと』なので物事が失敗に終わったときにこそ『自分らしかった。自分らしさなんか発揮されなければ良かったのに』となる。自分らしくあることが『良い結果を評する』という一般認識とは真逆の解釈になる。その原因は何なのかと言えば、要するにどのように自己評価しているのかというところにあるのではないかななんて思う。
良い結果を出したときに『自分らしかった』と誇れる人は自己評価を『良い』としている。こういう尺度をもってして人間観察するのも一興か。間違っても『自分らしい』ことを誇っている人に対して「自己評価、たっかっ!」などと指摘してはいけない。せっかくの良い評価を出した自分を褒めているところで、興覚めである。
『らしさ』を自分以外の誰かの行動を評価するときに使うとまた別の解釈が発生する。それについてはまた明日。

13th 承認欲求

承認欲求は誰にでもあるもの。それがゆえに不毛な自己アピールを重ね、黒歴史を作り上げてしまう人も少なくないと思われる。だからといって『承認欲求は悪いものだ』という決めつけは短絡的にすぎやしませんか。
そもそも、なぜ多くの人が承認欲求を有しているのだろうか。
それは生きていく上で必要なものでもあるからとも考えられるから。承認欲求があるからこそ、大きな物事成し遂げ、多大な社会貢献をした人も少なくないのである。
ではなぜ黒歴史を築き上げてしまう人と、大きな成功を築き上げる人という真逆の結果に分かれるのでしょうか。
それはどのような場所でどのような相手に認められたいのか、という照準設定が的確に行われたか否かではないかの違い、なんて氏は思うのである。
たとえ馬鹿にされようとも、卑下されようとも、それが認められたい相手からのものでない限りどうでもいい。そんなふうに思えるよう心構えをしておくと心を守ることができる気がする。たとえばエゴサをしてどうでもいいユーザーに文句を言われていたとしても、そんな奴に認められたいわけじゃないのならば熱くなって反論する必要もなくなるはず。
逆に、認められたい相手に馬鹿にされたり、卑下されたとすれば、それこそが自分にとっての必要な評価であり「まだまだ自分は不甲斐ないのだ!」ということなのだから、いずれ認められるように努力しようと思えるはずである。
「わかったか、私よ」
と、氏はどうでもいい人に卑下されて熱くなっている自分を戒めたりすることしばしばである。
ちなみに、自分自身で自分を認めるというのもひとつの承認欲求なのである。極論を言えば、これをうまく扱えさえすれば他人からの承認なんて些末なことと思えるようになるのかもしれない、かもかも。

12th 自分の能力

自分の能力の限界を把握することは難しい。だからといって全ての物事に挑戦していては時間もコストも足りなくなる。ゆえに、たいてい事前に可能か不可能かを想定する。目の前にあるミッションがどの程度の力でできそうかと考える。5割くらいの力で完遂できると思えるのならばある程度簡単そうに思えているということ。10割ならば全力を出せば完遂できるだろうと想定できているということ。
またあるいは、実際にやってみてもしも限界を越すことができれば完遂できるかもしれないと思えるのならば、かなり困難なこととはいえ少なからず可能性はあると思えているということ。つまりこれまでの経験の延長上にある物事だと思われる。
逆に自分の力の何倍が必要なのかと思えるようなミッションならば、それはきっとポッシブルなのだ。そんな物事は早々に諦めるか断るかするのが正解か、あるいはそういう不可能と思えるようなことにこそ挑戦するのが正解か。氏は前者の考えの人なので諦めがとても早い。やる前から諦めるとは何事か、と非難されようともなんのそのである。そんな諦めの早いはずの氏が、何かに挑戦しているということは、少なからず可能性を感じているということなのだろうな、と我が事を他人事のように思いながら昨日も今日も、微挑戦を続けている。

10th 睡眠に翻弄される

氏の人生を一文で表現するとすれば『睡眠に翻弄され続けた人生』になる。寝たいときに眠れず、寝てはいけないときに眠くなる。うまく睡眠ができなければ体調が悪くなり、物事が上手くいかなくなる。上手くできたとしても、睡眠がちゃんとできれいればもっと簡単に物事を完遂できたのにな、と思えることも少なくない。
そんな繰り返しだから、なんとか眠れるように『睡眠調整』しようとするのだけれど、どんなことをしても上手くいかない。
『睡眠調整しなければならない』という意識がある時点で何をしても上手くいかないのかもしれないな、と最近思うようになってきた。もぅ睡眠を諦めました。
もう限界まで眠らない、眠たいと思っても眠らない、勝手に身体が氏の意志に反して眠るまで眠らない。1日は24時間なんかじゃない。と思うことで、眠らなければならない今これを書いて微妙な眠気をむしろ覚ましている。このまま寝ないで仕事行ってきまぁす!!
と、思うと、眠気が強くなってくるの、もうほんとやめてくんない?

9th 椅子をクリック

デスクワークには重要な物がいくつもある。そのひとつが椅子である。森博嗣さんは作家になるにあたって唯一投資したのが椅子だったそうな。森博嗣さんは、まだ人生で一度も小説を書いたことのない状態だった。そんな段階で、必要なのは椅子だと考えたわけである。その他、パソコンなどはすでにある物を使っただけなので、実質的な投資は椅子だけだったとのこと。その椅子にしても、すでにあった物を使うこともできただろう。しかし椅子だけは良い物を新調したのである。その後、森博嗣さんは多くの名作を生み出すことになる。椅子の重要性がわかるエピソードである。
という話を単純明快に鵜呑みにした氏は都合良く利用して椅子を新調することにした。「デスクワークがはかどらないのは、椅子が悪いからだ」。と椅子に文句を言って、すでに何度も買い替えている。買い替えても買い替えてもデスクワークがはかどらないので、氏はさらに椅子のせいにしなければならない。本心を言えば、もう椅子のせいにはしたくない。でも、いつも動画を見たりお菓子を食べたりしてデスクワークをサボってしまうのだ。そのたびに「また椅子が合ってないのだな」と落胆する。
今度届く椅子は、氏の身体にベストフィットでありますように♪

8th 冷凍保存

かつて、生肉の鮮度を保ったまま保存するには雪山にある祠を使う以外に方法はなかった。そして、王様には遠路はるばるこの地まで来て肉料理を食べてもらう他なかった。村人たちにとって王様をもてなすということは、多大な負担であった。だから村人たちは鮮度を保ったまま遠くにいる王様にこの生肉を送る方法はないものかと考え、そして神に祈った。
この願いが神に届く。
こうしてクール宅急便は生まれることとなった。
新鮮なお肉もネットショッピンGOOD♪

7th 夜中のトイレ妄想

夜中にトイレに行こうとすると、当然のように廊下は真っ暗である。もしもその暗闇の奥に強盗犯が潜んでいたらどうすべきか、などと妄想してみる。
氏はなにやら暗闇の奥に不穏な気配を感じ、悪寒が身体を駆け巡る。いっぽう、強盗犯も突然起きてきた住人に対応するために息を潜め、どう攻撃するかを考えることだろう。互いに警戒しあうという状況である。
さて、ここで多くの住人は反射的にライトをつけてしまうのではなかろうか。なぜならば強盗犯が本当に強盗犯なのか、あるいは同居人なのか、また誰もいないのかなどをはっきりと視認したいと考えるからだ。防衛本能的にそうしてしまうのかもしれない。しかし、そうすると強盗犯にもこちらの状況をご披露することになる。もしもこちらが恐怖に慄く表情を見せでもすれば、強盗犯の心に余裕を与えてしまうことにもなる。
そんなわけで氏はライトをつけて視界を確保したい欲求を我慢するのである。当然なのだけれど、氏は目を瞑っていてもその空間のどこに何があるのかがわかっている。地の理を最大限に活かせるのだとすれば、それは暗闇であればこそ。
そんな妄想をしながら僕は廊下の電気もつけずにトイレに向かうのである。ここでもう一つの懸念が浮上してオシッコが漏れそうになる。もしも相手が強盗犯ではなく幽霊だったらどうしようか、と。幽霊ならばライトをつけたほうがたぶん良い。幽霊が光に弱いというのは誰が確かめた情報なのかは不明なのだけれど、なんとなく光の下では幽霊は弱る気がするのである。
夜のトイレはひと苦労だぜよ。

6th 新紙幣

氏は新紙幣の製造が開始されたというニュースを見た。使用開始は2024年初旬の予定とのこと。旧紙幣はそのまま使えるのだけれど、徐々に珍しいものとなるのだろう。
たとえば2000円札は今も存在しているらしいが目にすることはない。それを手に入れたとして、実際に使うとなると少し勇気がいりそうな気がする。それよりももっともっと古い500円札なども今も同じ500円として使えるらしいが、そんな物を突然出されれば店員さんも困ることだろう。自動販売機には相手にもされない。
つまるところ現在主流の紙幣、貨幣がもっとも利用に最適化されていくものなのである(お金については名著『狼と香辛料』で学ぶことができます)。よって、できる限りは新紙幣に両替しておきたいところだ。そうなると膨大なタンス貯金をしている人たちにとってはかなり厄介だ。銀行に1万円札を突然1万枚持って行って、すぐに交換してくれるとは思えない。それにそんな大金を持ち運ぶのもリスクを伴う。では少しずつ交換していくか。それはそれで手間である。
このように新紙幣開始について考えていると、僕は、これは困ったことになったなぁ、と悲観的になった。
なぜなら氏の家には1万円札が1万枚もない。ほんと困った困った。

5th 27インチのパソコンディスプレイ

氏はメインパソコンのディスプレイを新調した。24インチNAパネルから27インチIPSパネルにグレードアップ。フレームレスで見た目がスタイリッシュである。画質もとても良い。ここまでは満足なのだけれど、しかしながら氏の利用環境では画面が大きすぎることが判明した。首がすぐに痛くなったのだ。とはいえ31.5インチとどちらを買おうか迷っていたので、結果的に安堵した。ここに氏はまた大いなる教訓を得た。有名な筋トレには腕立て伏せ、腹筋、背筋、スクワットなどがある。しかし首の筋肉を鍛える筋トレはなかなか耳に入ってこない。人間は頭部が一番重いという話ではなかったか。現代人は重い頭部をどうやって支えているのだろうか気になっていたのだけれど、なるほどそういうことかと合点がいった。皆、首の筋トレをするために毎日何時間も大きなディスプレイでゲームをし続けていたのだ。決してゲームがしたいわけではない。ゲームは首の筋トレの副産物であり、やむを得ずプレイしていただけだったのだ。今流行のゲーム配信者も、その配信を見ている視聴者も、皆、首の筋トレをしているだけのこと。こうして首が肉体から転がり落ちるのを防いでいる。皆、がんばっている。
ちなみに氏はゲームをしない。昔はよくしていたのだけれど、ハマってしまうととことんのめり込んでしまうため意図的にゲームをしないようにしている。そんなだから首が胴体から転げ落ち、地面をころころと転がってしまうところだった。今回大きめのディスプレイを購入したおかげで、氏の周囲の人間は僕の頭部によるホラー体験をしなくて済んだとも言えよう。おめでとうございます。

4th 食欲

氏がYouTubeを見ていると、視聴者のツイッター投稿を紹介するものがあった。投稿者の部屋を紹介する企画ものである。その人物の部屋の壁に自作の格言が掲げられていた。
『食欲一瞬、デブ一生』
氏は頭を大きなマシュマロで殴られたかのような多大な衝撃を受けた。「こ、この投稿者は天才かっ!」
また同時に、もうひとつのことを思った。
これほどの天才をもってしても食欲というものはなかなか押さえられない驚異的なものであるのだなぁ、と。
つまり『食欲』はRPGで言えばラスボスに相当すると言えよう。こんなことを言えば「否、性欲こそがラスボスであろうがっ!」との反論を受けるかもしれない。
では折衷案で行こう。
まず大ボスの顔をしているのが『性欲』なのである。『食欲』はその側近である中ボスとなる。勇者はあっさりと中ボス『食欲』を倒し『性欲』の前へと進むのである。そして最後の死闘が始まるのである。勇者自身もこれが最後の敵と思いながら伝説の棒をぶんぶん振り回すのである。しかし闘いが佳境に差し掛かり『性欲』が減退してきたあたりで、倒したはずの中ボス『食欲』が現れるのである。そして『食欲』は声高らかに言うのだ。「性欲を弱めてくれてサンキュウ勇者。これで我は性欲を取り込むことができる」。『性欲』が『食欲』に対して「貴様、こんなことをしてタダで済むと思うてかっ!」とお決まりの捨て台詞を吐き捨てているうちに、『食欲』が『性欲』を取り込んでしまうのだ。そうして本当のラスボス『真・食欲』が勇者の前に立ちはだかるのである。
もうすぐ秋ですね。真・食欲がやってきますね。

3th にゃんにゃん♪

「にゃんにゃんにゃん♪」とオヤジがあざとさ全開で言えば気味悪がられる。これを女性がすれば可愛いという評価になる。よって猫は女性性を想起させると言える。では「わんわんわん♪」はどうだろう。確かに犬はどちらかと言えば少年のような男性性を感じさせるところがある。となれば禿頭のキモオヤジがあざとさ全開猫撫で声で「わゃんわゃんわゃん♪」と言えば可愛いという絶賛をほしいままにするのかと言うと、そんなことはない。実際は女性が「わゃんわゃんわゃん、うふふふ♪」と言った方が賛美されるのである。
『だからどうした!』ということを思い浮かべながら目が覚めました。おはようございますWonder World。

2th 初心

『初心忘れるべからず』というのは、まこと良き訓戒である。しかし、この見事な警句にも問題がある。それは『初心』をどこに設定するのか、ということ。たとえば『過去に抱いた初心』があったとしよう。しかしその初心をすっかり忘れ、うつつを抜かした現在を送ってしまっていることに気づく。そして「こんなことではいかん!」と新しい決意を新たにする。これからはこの地点が『初心』となる。この繰り返しで、やがていくつもの『初心』が積み重なり、果たしてどれが初心だったのか自分でもわからなくなる。ここで今一度冷静になって考える。一番最初に抱いた思いこそが『初心』であると、その他の初心を切り捨てるのである。
氏の場合はこうなる。「オギャーオギャー!(※)」
※翻訳すると「僕はお腹が空いたから好きなだけ食べる」「僕は眠いから好きなだけ寝る」
かようにして氏は今、見事に『初心』を全う出来ていると自負することができている。

1th ゴミ

氏、ノーエネルギーであらゆる物を分子分解できたらいいのになぁ~という妄想に駆られる。呪文は不要、物体に向けて手の平をかざし「ふはははっ」と握るジェスチャーに合わせて、物体は瞬間にしてミクロに帰す。ジェスチャー分のエネルギー使ってるじゃんか、という微量程度はノンノンノン。
要するに、自宅別室にて、粗大なゴミが由々しき事態となってきておる。こちらが妄想ならば良いのだけれど事実なのである。当然のごとく分子分解機能を有していない僕の肉体でできることはリサイクルショップにお譲りするか、市のゴミ処理場に持ち込むか。物体を転移させる超能力があればいいのになぁ、と妄想が追加される。

copywrite by キョギマミーレ・みつ豆




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