ムキーッてなったら、やめちゃう。

僕は努力ができない。
最近、ようやくそのことを自覚し、努力しようしようと苦悩することを辞めた。
言い換えると、努力により獲得できると予測できるメリットを諦めた、ということになるのかな。

努力といっても、何をどうすれば『努力』に突入するのかよくわからない。

たとえば腕立て伏せをするとしよう。
何回以上すれば『努力』として有効で、何回以下ならば無効なのか。
自己評価が甘い人は、数回しかしていなくても腕立て伏せをしたという事実に『努力』という勲章を与えるだろう。逆に厳しい人は100回やっても当たり前だと言い、それ以上やらなかったことに『努力が足りない』と自戒するだろう。

そう考えると『努力』ってなんなんだって話になってくる。
『努力』がなんなんだって話になってくるということは、『努力の大切さ』を謳っているものの全てに、実は何の理屈もないことになる。

人並外れた結果を出した人を『天才』と評し、その天才的結果の原因に『人並外れた努力』という紐づけをする。
しかしその『努力』が定量化されていないのだから、はっきり言って何の意味も示していない。

ただ『努力の結果』という言葉で装飾することで、パッケージ化してわかりやすくしているだけ、という効果しかなかったりするのではないか?

『努力』することの大切さは、なんとなく理解はできるし納得もできる。
しかしその『努力』が一体なんなのか、その実態は五里霧中なのである。

ふがいない結果に対して『努力』が足りなかったと自戒したところで、その『努力』が自分にとってどのようなものなのか、ぼんやりとでも定量化できるようでなければ、自戒ではなく、ただ悔しがっているだけにすぎない。
なので、また同じようにふがいない結果に直面することになるし、また『努力が足りなかった』と自戒らしき後悔をして、なんとなくその瞬間のモヤモヤをスッキリさせることになる。
この『努力不足サイクル』をずっと繰り返すことになる。
ような気がする。

だから僕は僕にとっての『努力』の基準を決めることにした。

たとえば腕立て伏せで考えるならば、もうこれ以上はできないかもしれないと苦しくなるまでは『努力』とは呼ばない。もうやめたいという強い欲求が生まれてから何回続けるかが『努力』の段階だとする。
他の物事でもそう、もうこれ以上は嫌だなぁという気持ちが生じていない段階は『努力』ではない。たとえ周囲が「えらいねぇ」と褒めてくれるほどのことをしていても『努力』にはならない。

つまり、迫りくる離脱欲求が発生してからが『努力』のスタート。
これが僕の『努力』の基準である。

僕のこれまで生きてきた結果として。
物事に対して離脱欲求が生じた場合、その欲求に抵抗することがほぼできたためしがない。
そんなこれまでの結果と、この努力の基準を論理的を結ぶと。
『努力』ができないのだから、離脱欲求をはねのける『努力』がそもそもできないというどうしようもない真髄に至る。

そんなわけで教訓。
何事に対しても、離脱欲求が生じるまでが僕の勝負時。
離脱欲求が生じる原因として『苦しい』『しんどい』『辛い』などという場合もあるけれど、もっとも大きな発生要因となっているのが『飽き』である。

そんな、飽き性な僕。

(2020.7.18-nono-typewrite)