【エッセイ】他人の能力を理解するには、まず自分側に理解するだけの教養や経験があるかどうかを考えなければならない!!

【他人の能力を理解するには、まず自分側に理解するだけのするだけの知識、経験、教養があるかどうかを考えなければならない!!】

たとえば相手が「頭が良いのか、悪いのか」というのは、結局、相手の素養の価値を見極められるだけの「自分の能力」が必要となる。

「この人は頭が良くないなぁ」なんて思うことがあったとしても、実はそれはただただ自分の教養不足ということが往々にしてあるのだ。

人が人を見誤る理由には、このようなこともあるということ。

だから対象となる人物が、頭が良い人なのか、そうでない人なのか、を判断する場合はまず自分こそがどうなのかという点も重ねて考えると、見誤りを回避することが可能となる。

その科学者がどれほど優れているのかを正しく理解するには、相当な科学の素養を身に付けなければならない、とか。

以前こんなことがあった。

ある人が、「B君は3流大学卒業なんだから、A君の方が頭が良いに決まってる」と。

実は僕はB君の方が話していて聡明で、会話の返しがユーモアに富んでいるし、頭の回転がものすごく早いなぁと感心していた。一方でA君は相手次第、その場の空気次第の受け答えをするだけで、頭の回転もさほどいいわけではないなぁという印象だった。

確かに大学に入るために勉強はA君が努力し優位だったのだろうけれど、そこまでに費やした時間はどれほどのものなのだろうか。また、その勉強は自分で何かはっきりとした目的があり、自発的に取り組んだものだったのだろうか。

それよりも、社会に出てからの時間の方が密度も質も濃いし、そこで何かに興味を持ち、自発的に何に取り組んだのか、ということの方が、教養や経験に大きな差ができるのではないだろうか、なんて思うのだ。

こう考えると、出身大学で相手を判断してしまっていたこの人は、他人の資質を大学卒業までの経験でストップさせている、ということになる。

それだと高卒の人は無条件に大卒の人より頭が悪い、という判断になるし、それでは正しく人を判断できないだろう。

と、こんなことを言っておきながらなんだけれど、別に人を正しく判断できなければならない、ということはないのだ。そんなことその人の自由なのだ。人を見誤った結果は、その人の環境に影響するだけのことで、その人はその人生をヨシとして生きているのである。誰も批判も否定もすることもできないし、すべきではない。

ただ、人を見誤らないことの恩恵は多々あるのである、という話。

たとえば、簡単なところで言えば、人にダマされる危険を回避できる。

詐欺、怖いですもんね(。-`ω-)m

あと、たとえば、

有益な情報や知識は、誰かからもたらされるほうが、速度も速く、容量も多い。すでに相手がその情報を整理整頓してくれているので、質もいい。
ゆえに、誰かに有益な情報を教えてもらうことは時間効率がものすごくいい。

逆に言えば、

自分の身体はひとつしかない。自分の人生分の限られた時間しかない。その中で、ネットや書物で情報や知識を得るには、あまりにも時間は少ないし、労力もかかる。非常に非効率なのだ。

であるからして、対象となる人物が優れている人なのかどうか、有益な情報を持っている人なのかどうなのか、などという判断はとても重要になってくる。

とかく仕事場など、社会・公共の場で出会う人間に対しての見極め能力というのは、かなり重要になってくるように思うのだ。

人間は、外部から観察できる通常の行動ではなかなかその人の全てを見抜くことができない。その人が脳内にどのような情報を蓄積していて、どのような知識カテゴリに興味があるのかなど、ほぼわからないといっても良い。

否、『能ある鷹は爪を隠す』という言葉があるように、あえて阿呆を装って周囲の期待を下げ、楽に生きている実際には頭のイイ人もいるのだ。

目に見えた部分や表面の部分だけで感じた印象で他人を判断する人がとかく多いように、僕なんかは感じている。

(2020.1.4.type-write)