【エッセイ】編集システムの必要性

今のようなネット環境が整うまでは、世に出る商業文章はほぼもれなく出版社や新聞社に集まり、そこで用意されている編集システムを通ることになる。
何人ものプロの目を通り、文章は濾過され、調整され、洗練されたものが読者の前に届く。
出版社が施す文章術やセオリーが必ずしも正しいわけではないけれど、それでも安易なミスは世に出る前にケアされていた。

今は、編集を通さずとも個人完結で文章を読者に届けることができる時代。
その代償と言えば言いすぎになるのかもしれないけれど、安易なミスがケアされずに世に出てしまっているなぁ、と感じることが多かったり。

内容や文法については好みや、作家の意図などもあるのでなんとも言えない。
しかし誤字脱字やキーボードを打ち間違えたのでは? と思えるような『てにおは』のミスについては、明確に間違いだと指摘できる。
著者本人もそういう間違いは、できればケアしたいはずだと思う。
だからこそ著者は、世に出す前に文章を推敲し、ミスのないものになるよう編集作業施す。
何度も何度も確認作業を行う著者だっている。
それでも、たったひとりの目を通すだけではそこそこの安易なミスが残ってしまうもの。
というのも、自分で書いた文章は、それが正しいものという認識の上で書いてしまっているので、他人にとって違和感を覚える文章であっても本人では気づくことができなかったりする。

重要なことは、価値観の違う別の人間の目を通すこと。
それを編集部が行ってくれていたわけだ。
だからこそ安易なミスに対しても、洗練を施すことができる。

だからといって、世に出る文章は編集部を通すべきだ、なんて言うのは価値観からしてもう古い。
今は個人発信の時代なのだから、わざわざ手間と時間のかかるフィルターを通さなくたっていい。
でも、個人でできる範囲での編集システムを構築し、獲得する必要があるのではないかな、とは思う。

簡単なところでは、身近な知人に読んでもらうことが考えられる。
しかしながら、商業目的レベルの文章を吟味できる技能を持っている人は、なかなか身近にいなかったりする。
確かに『メールは普通に読めるけど』程度のごくごく普通の人に読んでもらうだけでも、ケアできることは多い。行う意義はある。しかし、やはりそれだけでは心もとないというのが著者の本心だろう。
そこで、個人で編集承りサービスを行っている識者に、お金を支払ってやってもらうというのはどうだろうか。ツイッターなどで編集しますよぉとコメントしている識者らしき人物は探せば出てくる。
しかし確実な収益が見込める文章家ならまだしも、そうでない人も多いのだ。つまり編集コストに見合わない結果に終わる可能性が高い。だから、できればある程度見通しが立つまではアウトソーシング的コストはかけないほうがいい。

では、どうすればコストをかけず、そこそこ文章を見る目がある人に編集作業を行ってもらえるのだろうか。
僕は、そのひとつの答えにいきついた。やったぁ♪

『個人でやっているのだから個人でできるレベルの文章完成度でいい』なんてことはない。世に出れば出版社や新聞社が発する洗練された文章と横並びにされる。読者にとっては、発行側の事情など関係がない。良い文章を選ぶに決まっているのだ。
だから、個人でそれに対抗するには、何が必要でどんな方法があるのか、ということに対して常に疑問を持つことが大切なのだと思う今日この頃お腹空いた( `ー´)ノ
(nono-typewrite)