誰しもが勘違いをした、という経験をお持ちのことだと思う。
僕も日々勘違いをしている。勘違いを勘違いと思わないという勘違いも含めれば、もはやどれほどの勘違いをしているのか自分では想像もつかない。ひょっとしたら、人として生きている、という自覚ですらも勘違いということがあり得ない話ではないのである。しかし、この点だけは勘違いでも良い、僕は確かに生きていると思う。それでよろしいのだ。
ただ、そんな勘違いの中には、よろしくないものもある。言い換えればただの個人の不注意にすぎないものが存在する。この手のものは、きちんと事前確認をしておけばそんな愚かしい勘違いをすることはない、というようなことだ。ゆえに非難される
確かに、だからといってそんな愚かな勘違いを非難することは容易い。自分のことを棚上げして文句を言えば良いだけなのだから。
しかしその前になぜ勘違いをしてしまうのか、ということを理解せずに非難だけするのは、仕事もせずにお母さんの待遇に文句を言うニートのごとく傲慢だとは思うまいか。
ここではそんな不注意とも呼べる勘違いの中から特に際立って愚かな勘違いについて考えたいと思う。
読者諸氏は際立って愚かな勘違いが何かと問われればどんな事柄を想像するだろうか。
その通り。良く分かってらっしゃる。
間違いなく『もしかしたら僕はモテているのかもしれない』と浮足立つ、男の高すぎる自己評価に違いないのだ。
そう、この世で男の自己評価ほど危険なものはない。
世界有数のあらゆる勘違いを集約し、体系化し、その全ての根幹を突き詰めていけば『男の自己評価』という原因に行きつく……なんてことが。
それは言いすぎだろう。
ところで、僕は男だ。
そして人間だ。
ゆえに如何に男の自己評価が愚かしいものだと理解していても本能的に男の自己評価を下してしまう時がある。
僕の場合はかなり謙虚で控えめな自己評価ではあるものの、それでも少なからず事実との差を埋めきれず、よって勘違いという帰結に至ってしまうことがある。
これには日々反省しきりでたいへん紳士的な毎日を送っている。
たとえば、つい先日僕はこんな勘違いをした。
以下、その顛末である。
その日は快晴だった。
子供たちが走り回るには絶好の日和と言っても良い。そのとおり公園には小学校低学年と思しき少年少女達がボールを追いかけていた。そんなところになぜ僕のようなひねくれた大人が存在していたのか。そこに勘違いの元があったのだ。
昨今、地域の都市化により子供達がのびのびと遊べる場所が限りなく少なくなっている。公園があったとしてもボール遊び禁止などの条件付きのものも少なくない。遊具も不慮の事故を恐れ、排除する傾向にある。昔ほど色んな遊具がない。ただ平地に鳴らした広場を設けて公園と呼ぶ。常日頃からこの社会的傾向を憂慮してやまない僕は子供達がのびのびとボール遊びをする姿に心洗われる思いがした。
しかし、その公園もまた看板にボール遊び禁止のルールを掲げている。
いつひねくれた大人がそのことを指摘し、子供たちの笑顔を奪うか気が気でなくなった僕は、子供たちの笑顔を守るべく、ひねくれた大人のいちゃもんには僕が対応してあげようと公園にとどまることにしたのだ。
僕は子供たちが遊ぶ姿を公園の端っこに立って見守り続けることにした。そうしながらいつどこからやってくるかも分からないひねくれた大人の乱入にギラギラと目を光らせて警戒をたくましくもした。
もちろん僕がこうすることに見返りなどない。
ゆえに、僕はなんて心優しい大人なんだろうか。すばらしき紳士がここにいますよぉ。謙虚ながらもこんな自己評価をしてしまっても仕方がないくらいの善行なのだ。
そんな時、とうとう現れた。
ひねくれた大人が。
そして、そいつは子供たちにではなく、最初から僕に言い寄ってきたのである。
「不審者がいるという通報がありましてね」
心外だ!!
こんなにもすばらしい紳士を捕まえてなんとするかっ!! 【おしまい】
このケースは、警察に通報した誰かの勘違いと、実際に通報を受け駆け付けた警察の勘違いが重なり、二重の勘違いが生じている極めて厄介なパターンだ。あるいは、
【本項のまとめ】
もしかしたら、僕はすばらしい紳士ではないのかもしれない。
(written by K.Mitsumame)
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