『お願い』を『命令』にしないために

エッセイ/essay

 当然だけれどお願い命令ではない。ゆえにイエスorノーの自由回答権がある。

 依頼者はその内容を伝えさえすれば、あとは相手の『イエス』『ノー』の回答を待つのみである。

 であるのに、依頼者はようようお願いにさまざまな文言を添えようとする。
 どうしてもイエスと言ってほしいからだ。しかし酷い場合はイエスの強要となり、物腰はお願いであるのに命令と何ら変わない状態になることしばしば。頼まれた方はたまったものではない。

 そもそもお願いという行為は、する側は自分のことを考えて物を言うのに対し、される側は相手のことを考えて答えることを強要される性質を持っている。つまり【想い】のベクトルは両方依頼者側へと向いている状態と言えよう。
最初からフェアではないのである。

 であればこそ、依頼者がまずすべきことは、お願いの内容を工夫する相手がイエスと言いたくなる交渉材料を用意する、などのはず。それがせめてものフェア精神というもの。しかし工夫されるのはお願いを通そうとする際の、装飾過多な文言ばかりである。
 お願いにどれほどの名句を付け加えようとも、否、巧みな装飾を施そうとすればするほどに、相手の優しさに付け込もうとする傲慢な行為にしか思えなくなる。工夫すべきところはそこではないはず。

 僕はだから、お願いするときにまず考えなければならないことは、どうやったら相手は断りやすいだろうか、ということだと思っている。確かにお願いという行為とは矛盾する考え方であるが、相手との人間関係を継続するという大前提のもとでのお願いならば当然の気遣いだと思うのだ。

 ではどのようなお願いの仕方をすれば、相手が断りやすいのか。
 実は、その答えはまだ見つかっていない。
 お願い、という行為に至った時点で、どうしても相手が断ることにエネルギーを割かねばならないことを強要してしまうのだ。
 たとえば、いくら言葉で「断ってくれても良いから」と言っても、それは受け取る側からすれば「そんな物腰の低い人のお願いを断る自分の器量の無さ」に罪悪感を感じる可能性があり、ゆえに逆効果となり得る装飾的発言なのだ。
 お願いという一方通行的行為は、かくも複雑な心理を構成するのである。

 今のところ、だから僕は普段からこのような考え方をしているということ伝えるようにしている。お願いをするときに至り、突然これを言い出したところで「お願いを聞いてほしいからがゆえの必死」となってしまうのだ。なので特に複雑に考えられることのない普段にて言う機会があれば言うようにしている。
 最も、誰かに何かを頼むというのは最終手段だと考えている。ふと、誰かに何かを頼みたいと思うことはよくあるけれど、そう思った時には他に自分だけでなんとかする方法はないか、ということをよくよく考えるようにしている。その上で、他に案がなければ頼むようにしている。

 断ることには莫大な精神的エネルギーを必要とする。
 結果的に『そんなエネルギーを使うならばイエスと言った方がマシ』という消極的な理由から依頼を引き受けてくれる、というのはあまりよろしくない状態なのである。
 これらのことを忘れてはならないだろう。

 さて、このようなことを言うと、そんな窮屈な人間関係しか築けていないからだ、あるいはお願いしたりされたりってもっと気楽なものじゃないの、などと思われるかもしれない。
 確かに、気軽にできるお願いは多い。しかしお願いにもさまざまな種類があり、気軽にすべきお願いかどうかの判断ができない人が案外多い。加えて何度も同じお願いを繰り返す人だっている。どれほど小さなお願いでも限度というものがあるのだ。
 そしてそれらは自己評価に委ねられているため、相手がどう感じているのかを自分では気づかない傾向にある。つまり相手が快く引き受けてくれているから問題はないと勝手に自己評価を下してしまうのだ。しかし相手は表向き笑顔でも、意図的にそうしていることも多い。がゆえに内心では苦痛に苛まれているのだ。
 実際、どの程度のお願いならば気軽にして良くて、どれほどのものならば気軽にすべきではないのかという判断は難しい。ゆえに、あらゆることに対応できるタイプの考え方を採用すべきだと思うのだ。

 つまり、お願いという行為を一括りにして、その場合の考え方を一律にする。
 僕の場合のそれは『相手が断ることに使うエネルギーを最小限に抑えられるようにする』という一律である。

本項のまとめ
 だからと言って、僕以外の人にこの考え方を押し付けるつもりはまったくない。それは人の自由なのだから僕の知ったことではない(笑)

(written by K.Mitsumame)

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