時間は平等とか言うから、他人の時間の使い方をいちいち詮索してしまうのでは?

エッセイ/essay

天界が激震している。
どうしてか。
みつ豆適当大明神がテキトウなことを言いだしたからだ。
「あんにゃろー、私のこの暇をなんとしてくれるかっ!」
そこは足元が白煙で、もこもこしているような世界だ。雲の上という表現が近いけれど、下に地上があるわけではないので、少し違う。青と白というたった二色の背景。いわゆる神界、の、とある場所である。
みつ豆適当大明神は神様的な、しかしピンク色の布を身体に巻き付け、マジカルウィッチメルメルが持っているようなキュートなマジカルステッキを手にしている。つるぴか頭の上にも桃色の輪っかがふよふよ浮いている。
そんな大明神の周囲ではぷっくりお腹の出た天使たちが押し合いへし合いしている。背中から出ている愛らしい天使の羽が、その重そうな身体を持ち上げられるとは思えない。きっと羽とは無関係の神秘的な力で天使は飛ぶのだろう。羽は、そうなるとただのお飾りってことになるよね。
「ちょ、おまっ、アレの相手しろって」
「いやめんどくせーし、お前いけよ」
「いやん、アイツめんどくさいから嫌い」
などと大明神に聞こえることいとわない大声で言い合っている。
「静粛に。いや、ほんと静粛にっ!!」
みつ豆適当大明神が威厳のある声で言った。しかし目元がほんのり濡れている。
天使たちが押し合いへし合いを続けている。
「静粛にしろよお前」
「お前だよお前!」
「あなたたち、うるさいわよ、静粛に!」
「その大声が天災レベル」
天使たちが静粛するのに苦労している間に、みつ豆適当大明神が語り出す。
「今日はアイツに仕事を頼まれた」
あいつ、というのは同僚の神様のことである。仕事、というのは人間界において「科学こそ絶対だ、神様なんてあり得ない!」という人の数が増えすぎたため、適当な数、適当な人に「神様万歳!」という心理を上書きするというものだ。報酬は驚きの2万ゴッドである。
「それを今日は女神ちゃんとのデートが入ったからムーリーってなんたることかっ!」
適当大明神がマジカルステッキを振り上げてボタンを押した。棒の先についている星型の飾りがキラキラと光って、青と白の世界にて赤い色がとってもキレイ♪
「女神ちゃんがデートだってー!」
「うわぁっ、また犠牲者ぢゃん」
「今度は何万ゴッド貢がされるんだろうね」
「神様、馬鹿ばぁっかり」
天使たちが大きな大きなひそひそ声で言い合う。
「私はだね、何もあいつのデートに対して嫉妬して怒ってるのではないのだよ。私の時間を無駄にされたことが許せないのだよ!」
嫉妬だよー嫉妬、という天使たちの声が重なった。
「静粛に!」
はいはい静粛静粛、と天使たち。
「もしもアイツがもっと早く約束の実行不可を伝えてくれていれば、今、この私の貴重な時間をどれほど有益な時間にすることができたことかっ!」
天使の一人が「ぢゃあ何をするつもりだったの?」と問うた。
「うむ」みつ豆適当大明神がその天使を見下ろし嬉しそうに微笑んだ。「ゴロゴロしたりテレビを見たり、ネットショッピングしたり、お昼寝したりポテチの過剰摂取をしたりぼぅっとしたり、と色んな事ができる。その可能性は無限大!」
みつ豆適当大明神は胸を張ってマジカルステッキを振りかざした。赤いライトの軌跡が、とってもキレイ♪
「無益ぢゃん」
「無益だよね」
「そんな時間の使い方なんだったら、怒る権利なくなくない?」
「ないな~い!!」
みつ豆適当大明神は張っていた胸を引っ込めた。笑みを引っ込め、ぐぬぬと歯を食いしばってから、大声で言った。
「お昼寝ゴロゴロが私にとって無益だと、どうして言えようかっ!! それを決めるのは他人ではなく、私の価値基準のみなのであるっ!!」
お昼寝ゴロゴロをすることでそれ以降の一週間の仕事の精度がどれほどに上がることか云々うんぬんかんぬん。全ての物事は連動している云々かんぬん。それだけを見て判断するとは浅い云々かんぬん……みつ豆適当大明神は喚き散らす。
天使たちがうんざりした感じで「めんどくせー」と言いながら離散していった。【珍話・完】

とかく他人の時間の使い方に、身勝手な物差しを当て、それが価値あるものかどうかを測定しがちな世の中である。
お誘いを断られた時、相手にその理由を求め「ごろごろしたいから!」というのが許せないという人が多いのではなかろうか。一方で「家族の一大事」だとか「仕事」だと言われれば簡単に納得できてしまうというのはどういった価値基準なのだろうか、と疑問に思うことが少なくない。理由がどうあれ、お誘いを断られたという結果のみが、誘った者にとっては現実的に影響を受けるモノでしかないはずではなかろうか。
きっと断られる理由にて、『相手にとっての自分の価値』を測ってしまっているのではなかろうか。だから「あなたのことは大切デス!」という理由こそを求めてしまうのかもしれない。
相手にとっての自分の価値を高めたいのならば、そんなことよりもできることはたくさんあると思うのだけれど、どうでしょう。

だから僕は、お誘いをお断りするとき「ごろごろしたいから」と言いたい時も、「並々ならぬ私用がある、内容は言えない!」という神秘性で以ってお答えしようと常々考えている。
嘘ではない、ごろごろしたいというのも僕にとっては並々ならぬ私用なのである。が、残念ながら誰も僕を誘おうという気持ちを抱かないらしい。そんなだから奇跡的に誘われることがあると「うん、オッケー!」と言う以外にない。したがって使いどころが、ない。ぐすん。なんだよダブルブッキングって、意味わかんない。

平等という言葉があるけれど、実際僕達に平等というものはあり得ない。突き詰めれば全てが不平等になるように世界は設計されている。あえて言うならば『誰もが不平等』という条件を与えられているというところは『平等』なのかもしれないけれど。

よく、『生まれや環境などは不平等だけれど時間は誰にも等しく与えられている』などと言われたりする。けれども、時間は平等に与えられてはいない。死期が人それぞれなのだから当然のことである。

そう言うと、1日24時間という時間は平等だ、と細分化して平等を訴える人があるかもしれない。
しかしそれも平等ではない。1日が24時間というのはどこかの誰かが考えて人為的に設けたシステムに過ぎず、人類という生命体そのものに備わっている絶対不変の理ではない。人によっては1日という区切りも24時間という区切りも不自由で、それに沿って生きていない人だっている。よってその流れ方が全然違ってくる。
そもそも死期が違う以上、1日の価値が相対的に変わってくる。

たとえば蝉の一生は7日間だ。その1日の時間は24時間で僕達と同じだけれど、その価値が僕達と同等だとは思えまい。一生が短ければ短いほど、それだけ1日の価値は高くなるのだ。1日の価値が高いということはそれだけ不平等のあおりを受けている、という見方も間違いではないように思うけれど、どうでしょう。

ただ僕達人間はいつ死ぬかが分からない。想定することがそもそも難しい。そういった意味では、生きているその瞬間、という見方をすれば確かに時間は平等なのかもしれない。ゆえに、瞬間的な時間をどう使うか次第で、その他の不平等を克服することができる、という考えは前向きで良い捉え方だなと思う。

だからといって、瞬間的な時間の使い方にまで固定的な価値観を押し付けようとするのは、いかがなものかなぁとも思う。
極端な話、本人が「1日12時間をパチンコに費やした、実に有意義だった」と言うのを「馬鹿だ!」と切り捨てることに問題がある。この人は1日12時間パチンコにお金を費やすということを力にして日々働いているのかもしれない。そしてこの人が働くことで助かっている人が必ずいる。対価が支払われているのだから、必ず誰かが少なからず助かっているのだ。そう思うと1日12時間のパチンコ、是非頑張ってください、である。
これはまぁ極端な例だけれど、ただその一点だけを見て、価値を決めつけるのは視野狭窄にすぎるとは言えまいか。

実際僕は、僕の時間を無駄にされるのが嫌いだ。
こう言うと、僕がどれほど時間を密に充実することで埋め尽くしているのかと勘繰かんぐられがちだ。1分とて無駄にせず、一般的に有意義だとされていることに費やしていると思われがちなのだ。
そこで「だらだらしていた」「うたた寝していた」などと言うと、なぜか見損なったというか、残念そうな目を向けられることになる。
僕にとってはそのだらだらがあればこそ明日頑張れる、という理由があったとしても、もう認めてもらうことはできない。
以降、僕が「時間を無駄にされるのが嫌い」と言っても、「どうせろくなことに使ってない時間なんだから良いじゃんか」というふうに軽んじられるのだ。
まぁ軽んじられたところで僕の時間を奪うことをしなければ何だって良いと思うのだけれど、実際は軽んじられると、本当に平気で時間を無駄にされるシチュエーションに放り込まれたりするから厄介なのだ。


もちろん僕が誰かの時間に影響を与えることがあるように、誰かが僕の時間に影響を与えることは当然のことである。だらだらと無益な話をすることを無駄な時間だとは思わない。それはそういう時間として有意義なものなのである。
例えば仕事もそういうものだと最初から分かっているぶんについては、納得しているからこそ雇用契約を結んでいるのである。会社が僕の時間をどのように使おうが契約内のことならば何を言うつもりもない。
問題は想定できる終了時間を大幅に遅れるような同僚の怠惰な職務態度や、空き時間ができてしまうと分かっているのに伝えようとしない連絡の不備についてである。前者は明らかに怠けていることが分かる場合である。普通に仕事をして結果的に想定終了時間を大幅に遅れるという場合はなんとも思わない。共にがんばろうではないか、である。後者は特に納得がいかない。だから「なぜ言わなかったのか?」とその立場にある人に問うのだが、「分からなかった」などとはぐらかすのがせいぜいだ。もしも本当にその程度のことが「分からない」人ならば、人事を預かるには手に余る、という論理に直結する。明らかに役不足で会社の人事ミスだと言えよう。ただ、それも会社の社会なのである。そういう場合は諦めるしかないと思い、矛を治めることにしている。以降は言われなくとも、先回りして自分で空き時間ができそうか否かの確率を想定することで、対策とするようにした。


では約束の時間に遅れてこられることについても不満に思うのか、というとそれは全然気にならない。というのも僕は約束は始点から終点の全体で考えるようにしているからだ。たとえばそれが誰かと遊びに行く約束であったならば、出会ってさよならするまでが一つの塊であり、よって待っている時間もまた遊び全体そのものなのである。決して僕も待たせることがあるから怒る権利がない、という理由ではないデス。うん、たぶん(笑)


如何にせよ、ここで言いたいことは、他人の時間の使い方を、自分の物差しで測らないことが、自分の時間の使い方をとやかく言われないための必須条件だと僕は思うのである。

【本項のまとめ】
えーと、まぁこんなことを自分に言い聞かせながら生きています。つまり、他人の時間の使い方に「勿体ないなぁ」とかって思っちゃうものですよねぇ♪ 反省反省。

written by K.Mitsumame

コメント