人は見た目じゃない、なんて言うけれど、内面が目に見える形となって現われたものこそが外見であることにお気づきだろうか?
内面として良く取り沙汰されるのが『やさしさ』である。
ではこの『やさしさ』とは一体何なのであろうか?
【こうこうこうする人はやさしい】という具体的な行動指針を挙げられる人があるだろうか。
またそれを挙げたとして、その行動を誰がしようとも『同じやさしさ』として受け止められるのだろうか。
たとえばあなたはキーホルダーを落とした。どこにでも売ってるような特に思い入れのないモノだ。いずれ無くすこと、を想定したものである。
それを歩行中に落としていたのだが、すぐに後ろから拾ってくれた人が声をかけてくれた。
あなたは振り返る。
この時、あなたが好みと感じる人であった時と、そうではない人であった時と、同じように『やさしい人』という評価を下せるのだろうか。
実際、多くの人は好みの人の行動を『やさしい』と感じやすく、そうではない人の行動を『当たり前』だと思う傾向にあるように思う。酷ければ『こんなキーホルダーいらなかったのに!』という評価を下す場合すらある。
このような人もまた『人は中身ではない』『もっと中身を見てほしい』というようなことを言う傾向にある。『見た目で人を判断する人は嫌いだ』と。
しかし、実際には『見た目以外で人を判断することの難しさ』は顕著であり、それが純粋にできる人に出会ったことは今まで一度もないし、これからも出会う可能性は限りなく低いだろう。
今はネット内のメッセージで知り合い、外見を公表しないでやり取りを続けることが可能となっている。
言葉だけのやり取りで人間関係を築くわけだ。よって、この場合は確かに、内面のみでの人格判断になる。
しかしそこには、相手がどのような人なのだろうか、という想像図を意識的にせよ無意識的にせよ漠然と頭の中で思い描いているものだ。
特に性別と年齢などには敏感であろう。なぜならば、これは見た目を連想させるキーワードだからだ。
本当に内面だけで良いのならば相手が100歳であろうとAIであろうと問題とならないはずなのだ。メッセージの内容でのみ気が合えば良いのだから。
しかし、相手が20歳の女性だと思っていたのが120歳の男性だと知った途端、やり取りの感じ方は全く別のモノになってしまう。全く同じやり取りなのに、全く違う内容にすら感じてしまう。
もしも相手がAIだったと知ったらならばどうだろうか。
若い美人女性だと思って得意になっていた自分がミジメで仕方なくなるのではなかろうか。実際は若い美人女性と思えるようなメッセージのやり取りが出来ていたのだから、中身100%の判断基準ができているのであれば、AIであろうと何であろうと無関係であるはずなのだ。
しかしそうはいくまい。
相手が人間であり、広くとも狭くとも自分が想定している範囲内の人であることが無意識的に条件となっているのが現実だ。
そしてその条件とは必ず、見た目を伴うものとなっている。
相手が言葉を扱う犬ではいけないのだ。『中身は人間』と言われても、見た目が犬である以上、メッセージのやり取りはそれまでと同じようには続けられない。
だからあなたが『内面を見てほしい』と思っているのならば外面を磨かねればならない。
外面に対する意識とは内面そのものであり、その意識こそが外面と共に内面の魅力として相手に映るようになっている。そのことを忘れがちな人が多い気がする。
生まれつきどうしようもないモノというのは確かにある。
だからといって、外見重視の人の全てが『生まれつき』だけを見ているわけではない。もしもそうであるのならば、あなたが生きていようと死んでいようと同じ評価であるはずだ。しかして外見重視の人とて相手は生きていなければならないのだ。つまり内面が発露である外面を少なからず考慮しているのである。
あなたが考え、あなたの感性にて後天的に付加された外面を総合的に見ているのが、僕達人間というものなのだ。どこに視点の比重を置いているのか、の差はあれど。
何もかも諦め、何もしない外見のあなた。
納得はいかないけれど、何かをやろうとした結果としての外見のあなた。
この二つには大きな違いがあるはずだ。少なくとも内面に対する見方も大きく違ってくることは間違いない。
ここで「無理をしている、とか思われるのが嫌」、という人もあるが、そんな意見を述べる人とはどうあろうとも仲良くはなりはしない。人生で関わることのない無関係のブラジル在住ブラジル人が言ってるのとなんら変わらない。そのような人の意見を重視してしまっている過ちにまず、気づくべきではなかろうか。あるいは、それを何もしない理由にしている?
たとえば『無理をしているあなた』がいたとしても、であればこそより良く感じてくれる人というものはいるものである。そのような人の意見を重視した方が、良い人生となるのではなかろうか。
そして、そのような感性や気が合う人であっても、あなたが何もかも諦めて何もしないよりかは、何かしようとしている方が良かったりするはずである。
結果論、滑稽な外見になったとしても、そうしようとする内面が素晴らしいではないか。
僕はそう思う。
だから、年不相応と言われるようなことがあろうとも、平気である。
だから、似合ってないと言われるようなことがあろうとも、平気である。
だから、変人と言われたとしても、平気である。
少なからず『良い』とほめてくれる人の存在があることが、その全てをひっくり返してくれる。
それで良いではないか。
日本は、世界で最も自由な国なのである。
【本項の結論】
でも『生まれつき』による差はほんと大きいから、嫉妬心から『見た目じゃない』とか声を大にして言いたい。
不公平ぢゃないかっ(=゚ω゚)ノ
written by K.Mitsumame
コメント