【エッセイ】とある小説賞の受賞について少々……その9

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物語の出来が悪くとも提出できないよりはマシ、という考えは甘かった。
マシ、なんてレベルではあ~りません。

まぁ長期的な意味では、確かに提出したことは間違っていなかったのかもしれないのだけれど。
しかし、瞬間的には提出しないほうが精神衛生上良かったのではないか、と思えるレベル。

誤解なきよう付け加えておくと、この精神衛生上とは『編集者の精神状態』をさして言っている。決して僕の精神ではない(笑)

僕は元来のおふざけ体質が功を奏し、精神状態は安定している。
というか日ごろから不安定なので、何があっても不安定が続くだけなのだ。つまりは不安定という状態で安定している、という精神構造ギミックを採用しているのである、斬新!!

電話に出ると編集者はキレていた。
言外に「こんなゴミを読ませるな!!」との怨念が籠っていた。
これは邪推ではない。
間違いない!!

僕は電話だし姿を見られることがないので頭を下げることはしなかった。
しかし、心は平身低頭、声音は虚弱体質。
「はぁ……すみましぇ~ん」
と、謝った。

この時こそが、初回にして、即座に、担当編集者と僕の力関係とその強弱の差がはっきりと決まった瞬間である。

以後、立場の逆転劇は行われない。どころか、力関係において、その差1ミリとて縮まることのない、まさに主と奴隷の完成形である。
僕に人権などというものはなくなった(という気持ちになってもおかしくはない。僕みたいな人でもなければ(笑))。

どうも、僕はこのへんのプライドがあまりないのかして、誹謗中傷を浴びようともあまり憤りを抱くことがない(※1)。

たとえば、提出した物語について僕が意図して書いたことと、編集者の理解が明らかにズレていたとしても説明などしない。編集者の全ての意見に対して「はい、そうですね」「そうなんですね」と返すのみである。

これは決して、角を立てない、だとか迎合意識が理由でそうしているのでは決してない。
そう受け取られるように書いてしまっている、という事実でしかないのだ。
基本的には、作家は書いた物語について説明することはできない。物語で書かれた文章が全てであり、読者がそれをどう理解しようともそのことについて訂正する機会はないのである。ゆえに、ある程度どう受け取られるのか、という想定をして書かなければならないのである(※3)

新米作家と編集者が作品を通して対立し、決別するということは良くあることだ。
新米作家が編集者に受けた仕打ちについて物申す記事やコメントをネットで探せばすぐに見つけられるだろう。

多くは、編集者の否定的な意見に「それは違う!」「それはこういう意図で書いたのだ、理解できないのは、あなたの感性の問題!」などいうところが対立の根っこになっているように思える。
これを自分を正当化するためにいろんなエピソードを重ねて書こうとするから、むしろ言い訳がましくなっていたりする。

多くの人に自分の不遇をわかってほしいと思う気持ちはよくわかるのだけれど、このような劣勢の訴えは、むしろ淡々と端的に極限まで無駄な文言を排除したものの方が真実味や説得力が増すように感じるところである。
これは作家の訴えに限らず、日常的な人間関係にも言えることのように感じている。参考までに。

作家によっては、自分の書いた作品は我が子のように愛おしいという(※2)。
血と汗の結晶であり、大切な物であり、ゆえに、尊重してほしいと思っている。
もちろん、至らぬ点の多い作品とも自覚しているので、ある程度否定的な意見を言われることは覚悟している。しかし、それにしても作品を尊重した上で物申してほしい、という気持ちでいるのだろう。

だから、思うがままに言葉を選ぶことなく否定的なことを言われれば、最悪の場合自分の人格そのものを否定されているような錯覚を抱いてしまうのだ。

僕の担当編集者も、このような対立はよくあることだと言っていた。
編集者側からすれば、尊重しようがしまいが意見は変わらない。意見をどう受け取り、プラスにできるかどうかではないのか? 
と、この上ない正論を述べてらした。
思うのはビジネスとしてやっているという一貫した芯を貫いているのは編集者であり、であればこそ強い態度でいられるのではないか。

どちらかと言えば、作家側に明確な信念のようなものがなく、ふわふわしていたりする傾向が強い気がする(笑)
というのも、批判的な意見に対して、その意見を覆そうと躍起になる時点でブレていると言わざるを得ないのだ(※4)。
出版社の編集者と作品を通した話をしている以上、根本にあるのはビジネス性である。そこに感情論を持ち込んでしまっている時点で、どのような世界に飛び込んでいるのかという認識がズレてしまっているのだ。

なによりも、編集者に反発して、編集者を言いくるめたとしても作品は何も変化していない。
言われた意見が作品に投影されることはなく、ゆえに、作家自身以外の視点を作品に重ねることができない。
つまり、成長しないし、進化もしない。
『自分』という小さい殻の中で、作家性を完結させてしまうのである。

確かに瞬間的には編集者を御すことができて優越感に浸れるのかもしれない。けれど、その時点でその編集者はそんな作家をバックアップしてくれなくなる。もしもそれで他の編集者にも相手にされなくなれば『自分の価値』を広めてくれる存在を永劫得られないことになる。

業界の原理。
こんなこと僕は先刻ご承知である。

ゆえに意見は全部聞き入れ、活かせることは全部取り入れる。活かせない意見は使わなければいいだけのこと。その意見は間違っている、などと反論する必要がそもそもないのだ。

というよりも僕は何も知らない文章書きである。業界で言えば小学1年生のような段階にあるのだ。どんな意見にさらされようとも全て僕の至らぬ点でしかない、と思うよりなかった。

だからである。
僕は、否定的な意見に対してぐっと堪える必要すらない。
「はいそうですね」と答えながら、言われたことに対し、どのような質問をすれば、それを活かすための具体的なヒントを得られるのだろうか、と考えていた(※5)。

これが良かったのだろう。
編集者は最初こそ怒り心頭という具合だったのだけれど、次第にイチから丁寧に創作のヒントをくれるようになった。

そうして電話でのやり取りは初回からノンストップ、密度の濃い3時間であった(笑)

普通の人ならば10分で喧嘩して終わってたろうなぁ、なんて思う。
自身に対してプライドがないって、実はめちゃくちゃ強いのだ!!

そして本当の意味で強くなるためのヒントを得られるから、うまくいけば本当に強くなれるのだ。
そうやって、進化した作家さんも多くいることだろう。

残念ながら僕はヒントをまだ活かせていない弱小文章書きである。しかし、今もプライドを持つことなく、地道にあれこれ試行錯誤しながら自身の可能性を試している。
~その10に続く~

※1=あくまでも僕自身についてのことならば、という意味であり、僕以外の誰かの誹謗中傷に対して納得がいかなければ怒り狂います!!
※2=僕は書きあがった先から自分が書いたものとは思えない。読み返してみても『こんなこと書いた覚えがない、ということがしばしばである。ゆえに愛情は皆無。ただし、ミリオンセラーになったなどということがあれば、その時は「全身全霊の愛を注ぎこんで僕が書きました!」と主張を強くすることだろう。
※3=読者全員が同じように受け止める書き方というのはあり得ない。必ず、意図したものと違う受け止め方をする読者は存在する。ゆえにこの場合の想定とは、書き手自身が求める読者像に対して誤解を与えないためにはどう描くか、ということである。誰に対してでも、という想定は不可能であり、ゆえに全く想定しないことに等しいと僕は考えている。
※4=あくまでも意見してきた相手が相応の見識者である場合に限る。SNSなどに多い、程度の低い批判に対して、その批判精神をコテンパンにするというのはここでのブレには相当しない。というよりどんどんヤッタレ、である(笑)
※5=たいていの場合、意見とは抽象的であって、理由及びこれこれこうしなさいという具体的なことが示されない傾向にある。ゆえに、意見に対しては質問をすることで、その具体性を引き出そうと試みるのである。そうして具体性を述べてくれれば価値のある意見となり、逆に述べられない意見にはただの誹謗中傷が紛れ込んでいる可能性がある。その時点で流すことができたりする。もちろんこの限りではないので冷静な見極めは必要。

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(2020.4.5-nonora.typewrite)