人間関係を語るときの名称は【知人】だけで良いような気がする。

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広場で少年たちが野球をしている。その少年が打ったボールが、お散歩中のお爺さん目がけて飛んで行った。そしてお爺さんの側頭部にクリーンヒットする。お爺さんは「はぎゃー!」とか言いながら倒れた。たまたまそのそばを通りかかった美女が心配してお爺さんを抱え起こした。
「うほほっ♪」
「大丈夫ですか? 一体何が?」
美女はお爺さんが何者かに襲われた可能性でも考えているのかもしれない。うほほ、とか声を漏らしてしまっているというのに、もぅおバカさん。
お爺さん曰く、
「7歳~10歳ぐらいかのぉ、そんな男の子が硬い銀色の棒を振り回して当たった握りこぶし大の球状の硬い硬いものが、ぽーんと飛んできてワシの上の方の横に直撃したんじゃよ。ワシ、死んじゃうかもしんない。じゃけぇ、赤い光をくるくるさせてウーウーと喚き散らしながら、ゴムの四輪で走る白と赤でデコレーションされたボディーを持つ移動手段によく使われるアレを呼んで、グフッ!」
お爺さん、ご臨終。
美女叫ぶ。
「おじーさーん。何が言いたいのか全然わかんなーい」
チーン。

僕たちは、何事にしても名前を付けようとする習慣がある。
名前を付けることの最大の効果は『情報の簡略化』にあることは言うまでもない。(この言うまでもないという表現は、言ったあとにしか使えないので、結局言っているわけだけれど笑)。
もしもお爺さんがもっとネーミングというものを知っていればどうなっていたのか。
お爺さんのセリフは次のようになっていたはずである。

「少年が打ったボールが頭に直撃したんぢゃ。救急車を呼んでくれぃ。それにしてもお姉さん、グラマラスじゃのぉ、どれ、このあとワシとデートの一つでもどうかのグフッ!」

と、美女にアタックしているという幸せの中でご臨終に向かうことができたわけである。

ネーミングがいかに僕たちの生活に大きな意味をもたらしているのかは、この例で十二分にご理解いただけたと思う。

白くて丸い球体など他にいくらでもある。だから『ボール』という名前を付けることで、情報を圧縮させることにしたのだ。言わば、アナログをデジタルにするというのがネーミングという行為だと言えよう。
これは至極合理的であるし、言葉を介することで他者との意思疎通を図っている僕達人間にとっては必要不可欠な要素である。
もしも物事に名前を付けずに意思疎通をしようとすれば、何について話そうとしているのかを伝え、理解するまでにかなりの時間と労力を必要とし、本題に入る前に疲れ切ってしまうことだろう。お爺さんが美女にアタックすることもできずに、ご臨終してしまうことも無きにしも非ずなのだ。

もっと大きな視点でモノを見てみよう。
もしも物事に名前を付けなければ、科学研究の成果を次世代に伝達することが困難となり、そうなると文化や経済の発展はあり得なかったことだろう。さらに突き詰めて考えいくと、もしかしたら人類はすでに滅んでいたかもしれない、という結論に至る可能性も否定できない。
それほどにネーミングという行為は、人類にとって大きな発明だったのである。

したがって今更、ネーミングのメリットについてはいちいち述べるようなことでもないと思う。ここではその逆、名前をつけることのデメリットもまた小さくはない、ということを述べようと思う。
『便利』を獲得する代償は、どのような事象であっても必ず付きまとうジレンマだ。こればかりは仕方がなかったのである。
しかしデメリットを理解した上で便利にあやかるのと、何も考えず何も知らずに便利に溺れるのでは、結果にかなり大きな違いが出るように思う。

僕は日常の中で、特にネーミングをすることで不自由になっているなぁと思うことがある。
それは人間関係に名前を付けようとすることだ。
とかく多くの人々は、自分の身近な人との関係から順に名前を付けたがる習性があるように思う。
家族、兄弟、親友、友人、知人、先輩、後輩、彼氏、彼女、愛人、嫁、旦那、他人、頼れる英国紳士など。
このうち百歩譲って僕のことを頼れる英国紳士だと関係づけることはものすごく良いことだとしよう。何歩だって譲るさ。それと家族関係を示すものも良いだろう。というのも家族関係の場合、ネーミングより先に人間関係の形が確立している場合がほとんどだからである。つまりそこに名前があろうとなかろうと、関係の在り方が変わるものではないのである。
問題はその他である。

僕は人間関係に『親友』『友人』『知人』『彼氏』『彼女』『愛人』『先輩』『後輩』などと名称づけることにあまり良い印象を持っていないし、その必要が本当にあるのだろうかと疑問に思っている。
というのも、名付けた本人はもちろんのこと、相手も窮屈そうに感じられることが多いからだ。

実のところ、これら名称を付ける明確な基準は存在しない。つまり具体的かつ定量化された条件が何一つ無いのにも関わらず、決定されているのだ。
では何がその決定要因なのかと言えば、その時のごく短期的な感情による場合が多い。
たとえば、一時の盛り上がりで二人の関係性に『親友』との名前を付けることは良くあることだ。しかし「僕達(私達)は親友だよね!」と意気投合しているご両人に、『なぜ親友なのか?』『友人と何が違うのか?』と問うと首を捻る。そんなだから『将来コイツと頼り頼られる関係がどちらかが死ぬまで続く!!』などと堅苦しいことを思っている人はほとんどいない。ただなんとなく友人と呼ぶには浅い気がするから、という理由で『親友』としている場合が多いのではなかろうか。
これは明確な状態が先にあって、あとから名称が付記される『家族』に類するネーミングとは質を異にし、二人の状態が安定するよりも先に名称を決めてしまっているという感がある。
そうするとどうなるのかと言えば二人の行動が『親友』という名前に縛られることになる。あとになってから『親友』であろう、という行動を取ろうとし始めるのだ。
具体的には、相手の行動に『私達親友!』に相応しいかどうかという物差しをあてがい測定することになる。もしも足りなければ不満を抱くことになる。逆に自分の行動にも『私達親友』の物差しをあてがい、足りないと思えば背伸びをして届かせようとしてしまうのだ。当然、不自然な行動を取ることになり、疲労やストレスが溜まることになる。そうなれば今度は自分がこれだけ『親友』であろうと努力しているのに相手は全然努力していない、などと不満をぶつけ始めることになる。こうなれば負の連鎖が完成したようなもので、もはや友人としての関係すら危ぶまれるものになる可能性も小さくはない。
自ら、あるいは身近な人に、心当たりはありませんか?

僕は人間というものが良く分からない。色々考え続けているつもりではいるけれど、やはり分かり得ないというのが今以っての結論である。つまり、さまざまな環境の中でかなりの時間接してみないことには、その人と僕がどの程度の距離感で接するのがベストなのか、判然としないのである。もっと言えば、色んな距離感を試して実感しないことには分からないのだ。大抵の場合、当初思う『これくらいかなぁ?』という距離感はズレていたりする。

もちろん、最初から波長が合う人もいるし、苦手だなと思う人もいる。
波長が合う人は苦労なく仲良くなれるし、初期段階で何らかのイベントを共有しようという流れになり易い。ゆえに会って間もないのに、昔からの知り合いであったかのような非常に近い距離感で接することになる。さらに言えば、初期段階で波長が合った場合、とかく楽しい関係のまま安定させようと互いが互いを強く意識して近づき合おうとする。これはどうしてかと言うと、親近感を感じている割に相手のことを全然知らないというギャップを、お互いが相手の情報を得ようとすることで調整しようとする機能が働くためだ、と考えられる。最初のうち、互いに色んなことを質問し合うのはそのためでもある。
互いに引き合っている状態だと言えよう。
したがって、この時点では人間関係形成のための努力の差を感じることはまずあり得ないのだ。当然二人の間に、まさに『意気投合』という盛り上がりが生まれ『親友』という名前を付けたくなる。それはまるで、もっともっと早くから出会えていなかった二人の過去を黒歴史とし、その黒歴史を覆い隠すフィルターのように思えなくもない。それは親友という名の強力なフィルターで自分達の関係をデコレーションすることで、足りない何かを補っているかのようですらある。

この段階では、まだ長期的にみてベストな距離感がどれくらいなのかは分からないはずなのだ。もしもこの盛り上がりの状態の距離感が結果的に長期的にみてもベストであった場合は、ただの偶然にすぎない。たいていの場合、当初の盛り上がりの最中は近づきすぎなのである。このことにどちらかが先に意識的にせよ無意識的にせよ気づくことになる。要するにある程度情報を得たことで満足し、相手を引こうとしていた手を緩めるのだ。緩めた分、その力は他のことに向くことになる。
するとどうなるのか。
突然態度を変えた相手に疑問を抱き、悪い場合は「僕(私)、何か悪いことした?」などと邪推するようになる。
早くも「親友だと思っていたのに!」という黄色信号が点滅。
ここから様々なパターンに発展する。

手を引いた側が申し訳ないと思い『盛り上がっていた状態』の維持に協力しようとするパターン→『親友』って、維持するのに意図的な努力が必要なくらい苦しいものなのだろうか?

手を引いた側に裏切られたと思い『最低なヤツ』というレッテルを貼り『嫌い』になるパターン→一時とはいえ『親友』と言えるほど波長が合っているのだから、本来は『嫌い』になるほどの相性の悪さはないはずでは?

互いに気まずい空気を感じつつもその他の人々も含めたその環境を維持安定させるには、ある程度の関係性を保つパターン→僕には到底こんな大人な人間関係は維持できそうにありません。

などなど。
いかにせよ『親友』と名付けてしまったことが馬鹿馬鹿しくなり、多少強い表現をすれば早くも『黒歴史化』させてしまった状態だと言える。黒歴史とは、今現在も重荷として何らかの負の作用をもたらすもの。

確かに、物事に名前を付けることの利点の大きさは序盤で述べた通りである。そのことに僕は何一つ物言いできるところはない。
人間関係についても名称をつけることで『組織』の形を理解しやすくし、的確な役割分担が行えるという大いなる利点がある。誰かに説明する時にも話しやすいし、聞く方も理解しやすい。
だから僕は決して、人間関係に名前をつけることの全てに異を唱えているわけではない。
ただ、なぜそうも早い段階で名付けたがるのか、という点で、勿体ないなぁと思うことしばしばなのである。

【親友】だけではなく【友人】、【彼氏】や【彼女】、【先輩】や【後輩】などなど人間関係を名称化したものはたいてい、先に述べたようなデメリットを生む傾向にあるように思う。
要するに、お互いの距離感や在り方のベストが決定できていない段階で、その関係性に名前を付けることで『こうあるべきだ』という価値観に縛られた行動を取らねばならないようになるのだ。

もっと言えば、そもそも距離感や在り方のベストを決定すことが不可能なことなのかもしれないのだ。僕達人間は今日も明日も同じということは有り得ない。見えなくとも、自覚できなくとも、何かしらの変化が必ずある。細胞は日々入れ替わっているし、脳が構築する知識量や経験の記憶も日進月歩である。当然、考え方も昨日と今日でまるで違うなんてことは、ごく普通にあることだ。人格だって『裏表がある』だとか『二重人格』などの言葉が先走りしてしまっているがゆえ、1人1つだと思い込みがちだけれど、人間の脳はそもそも多重人格的思考ができるようになっているのだ。「私は〇〇したいから〇〇する」という主観による行動決定もあれば、「あの人なら〇〇するだろう、だから私もそうする」という客観による行動決定もできるのだ。自分の行動をあとから思い返して「自分っぽくない行動だった」などと思う経験は一度や二度ではないはずである。「あの時は、よくもあんなに恥ずかしいことが平気でできたものだ」などという黒歴史を秘めている人だって少なくはないだろう。それが価値観や考え方が変化した証拠なのである。そして誰かとの距離感や在り方は、そんな価値観や考え方により決定されるのではなかろうか。したがってその時々で変化していくものなのだ。だから過去に決定した『こうあるべきだ』という価値観に縛られていれば、思い描いている関係性と実際の行動に齟齬が生じるようになる。そして悪い場合にはその理由の全てを相手に丸投げする。「あいつは変わった」と。

人間関係とは、極論を言えば決定することは永劫、有り得ないことなのかもしれない。
良くも悪くも、いつだって変化し続けるもの。それに名前をつけて『こうあるべきだ!』という枠組みに苦しむことになることを思えば、全部ひっくるめて【知人】とでもしておき、自らの内側だけで【どのような知人なのか】ということをぼんやりと仮決定しておけば良いように思う。わざわざ人にそれを説明する必要もないわけで。そうしておけば時や環境の変化に合わせて距離感や人間関係の在り方が、その時々に合わせてごく自然に最適化された形を成すのではないだろうか。こうすれば「あいつは変わった!!」などとの非難を口にする必要もなくなるだろう。変わって当然なのだし。そもそも、そう言っている自分自身も変わっていないわけがないのだから。

日常において、その名前が表す『自分はこうあるべき!』に無理に寄せようとしているがゆえ、しんどい思いをしているということはありませんか。
『こうあるべき!』の日々更新をおススメします。

 

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