映画とギャンブルの骨格は同じ

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『ギャンブル』というものに対して、否定的な意見を耳にすることは少なくないだろう。
 その中でも良く聞くのは「お金をゴミ箱に捨てるようなもの」という意見である。
 確かに当たればお金は増えるが、それはほんの一握ひとにぎりの人だけのことであり、ほとんどの人は減るようにできている。それがギャンブルの基本システムだからこれはどうしようもない。であればこそ『負ける』ということを大前提としてギャンブルを懐疑的かいぎてきに見るという視点は間違ってはいない。その視点がゆえ、お金を消費したことに対して、手元に物質的な何かが残らない、あるいは社会的に優位な知識や経験が残るわけではない、という結果をゴミ箱に捨てるようなものと揶揄やゆしているのである。

 まさに正論である。

 では、世の中どれだけの人が、お金を全て価値あるものに変換できているのだろうか、という命題に対してはどう答えるのだろう。
 このように言うと、都合の良い話題のすり替え、あるいはひねくれている、などと否定される。しかしその否定こそもまた話題のすり替えであるし、論理追及に対する誤魔化しとなる。
 このように論には論を延々と重ね続けることができる。いわゆる水掛け論である。こうして水をかけあって論点が脱線し続け、もはや本題が何であったのか分からない状態なった時の嫁に勝てる旦那は世界中どこを探してもいない。水掛け論に発展した時点で夫婦喧嘩は嫁の勝利なのである。
 正論に対してそれを否定する正論を重ね続けているといずれパラドクスが生じる。嫁の勝利宣言はそこにあると世の旦那は知るべきだ。ゆえに嫁が正論をぶつけてきたら何も言い返さず『ギュッと抱きしめてあげる』などの意表を突く行為が効果的である。ただし、自殺行為となる可能性も少なくはない。
 話がエッセイ(笑)こっちの記事もよろしくですのカテゴリで扱うような内容に逸れてしまった、つい(笑)
 閑話休題。
 話を戻そう。

 先の揶揄をひっくり返せば、次のように言い換えられるのだ。
 お金を消費する場合、物質的な何かが残らなければならない、あるいは社会的に優位な知識や経験が残らなければならない、そうでなければ「お金をゴミ箱に捨てるようなもの」となる。
 と。

 そんなもの考えればいくらでもある。
 少なからずエンターテイメントに類されるサービスのほぼ全てが、お金をゴミ箱に捨てるようなものに該当することに気づくだろう。
 たとえば映画である。
 どれほどの名作映画を見ようとも、物質的な何かが手元に残るわけではない。鑑賞チケットの半券が手元に残りはするが、それはハズレ馬券と同等である。また、映画を見て社会的に優位な知識や経験が得られるのならば、映画館というシステムが学校に取って代わっているはずである。
 映画の目的は、その時間を楽しみに換えるということにある。そこで得られること対して基本的に永続性も将来性も期待しない。あくまでも短期的な精神の充実をお金で購入しているのだ。これは映画に限った話ではなくエンターテイメントに類されるほぼ全てのサービスの基本的な骨格である。

 では映画が良くて、なぜギャンブルはダメなのかという話になる。

 ギャンブルも短期的な精神の充実、つまりその時間を楽しみに換えているエンターテイメント行為にすぎない。
 映画は1500円前後の料金を支払い2時間の鑑賞を楽しむ行為であり、競馬は最低100円の料金を支払い2分の鑑賞を楽しむ行為である。両者に違いがあるとすれば、競馬の場合は運が良ければキャッシュバックの可能性がある、というだけのこと。
 だから九割以上の人が競馬でお金を減らし続けているのにも関わらず、多くの人が損をしているような顔をせず、楽しそうに競馬を語ることができるのだ。映画を鑑賞している人もお金を減らし続けているのにも関わらず、多くの人が損をしているような顔をせず楽しそうにレビューするのと一緒である。

 ギャンブルに対して「信じられない」「馬鹿だ」「なぜそんなことに貴重なお金を使えるのか気が知れない」などと否定的な意見をすることは容易たやすい。
 しかし、あくまでもエンターテイメントを楽しむための料金を支払っただけ、という骨格部分に少しだけ目を向けてみれば、多少はギャンブルに対する考え方を軟化なんかすることができるのではないだろうか。
 硬化こうかしてしまった否定派の人は、ギャンブルが生み出したモンスター、いわゆる依存症いぞんしょう生活破綻せいかつはたんまねいた人達の話を聞いて、そのリスクのインパクトが強すぎて全ての人達に同じようなフィルターをかけて見てしまっているのだろう。けれどもそれはほんとうに一部の人達のこと。多くの人が、エンターテイメントとして短期的精神の充実の料金を支払っている程度でたしなんでいるにすぎない。それがギャンブルの本質なのである。
 資本主義という経済システムの中でギャンブルが成立している、という基本条件を考えてほしい。
 依存症で生活破綻している人が大量発生しているのならば、ギャンブル経営はそもそも成立しないのである。
 何らかの事象に依存的になり、それがゆえ生活を破綻させてしまう人というのは決してギャンブルのみが生み出している現象ではない。
 ギャンブルよりも生活破綻者を生み出していることなど他にあるだろう。
 ただ、ギャンブルはそれが目につき易い、というだけのことなのではないだろうか。

本項のまとめ
 僕は、だから短期的な精神の充実を主目的として、その料金を支払っているだけということに留意できる範囲内でのギャンブルならば、他のエンターテイメントサービスと何一つ違うとこはない、と考えている。ゆえに、後ろめたさを一切抱くことなくこれを推奨することができるのである。
 楽しいんだよ、競馬(笑) 

 

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