嘘は思考の恩恵、ただし周囲への配慮が不可欠~エイプリルフールってなんなのだろうか笑~

2019年4月2日




月1日になると『エイプリルフールだから』ということで意図的に嘘をつこうとする人が急増するようです。
しかして、たいていの人はエイプリルフールでなくとも嘘をついているものであって、つまり自分の普段を棚上げすることで、1年のうちこの日のみ嘘をつく自分がいる、という嘘を自分に対してついているという自己循環にてフールを帰結させていたりする1日なのですヤヤコシイ。

いうひねくれ者の視点はさておき、ここでは『嘘』について考察してみようと思い立ちました。

とえば乃之楽章氏(※小説なんかを書いている人)は嘘に塗れた生活をしています。
常に、現実に虚飾を施した仮想世界を妄想し、それをテキストに落とし込もうとしている。思考は常にひねくれた視点を求め、そして『ファンタジー』という大義名分を盾にたったひとりの読者すら求めてもいない虚構世界を仕立て上げ、愚にもつかない迷文をもてあそんでいる。否、駄文にもてあそばれている。救いようのないヤツなのです。
ただし、他人とのかかわりがないから嘘をつく対象は今のところ自分のみ。自己完結型の嘘塗れ。つきたくても話を聞いてくれる相手がひとりとていないのだからどうしようもない。
とはいえ自分に嘘をつかない日はないというくらいで、むしろ1年のたった1日、4月1日くらいは嘘のない24時間を過ごしてみてほしいもの。
そういう嘘を絵に描いたような人物も世の中にはいるということですね。残念ですね。

て、かくいう僕も、嘘を否定的に捉えてはいません。
幼少期に『嘘ダメッ!』との教育を受けはしましたが、嘘が悪いものという一律の先入観がまったくありません。
他人に迷惑をかける嘘でない限りは、別に悪くもなんともないのではないか、と思っています。
積極果敢に嘘を利用し、より充実した日々を求めるのも悪くはないのではないだろうか。ただし、そんな効果的な嘘を思考できるのならば、という条件が付きますが。

は、ここで『嘘』というものが、いったいどういうものを差して言うのかを考えてみたいと思います。
たとえば言葉としてアウトプットしたもののみが『嘘』であるか『本当』であるかの対象となるのか、という命題。
もしもそうであるのならば、言葉に出さなければ『嘘』にはならない、つまり嘘や本当という概念が存在しないことになります。
そうなると『言語発声』があるから嘘や本当という概念が生じているということなりますが、それではいささか暴論となるように思えます。

いうのも、考察の一例として、人間関係においては、『好き嫌い』というのは普通、露骨に表現はしないものです。大人になれば『嫌い』な相手でも、その場においての立場を客観的に考えて、『好意的』な態度を取らなければならないことなど多々あるでしょう。
その態度は『嘘』ではないのでしょうか。
では、仕事終わりの居酒屋、仲の良い同僚との上司に対する愚痴大会はどういった了見となるのでしょうか?
やはり、口に出さずとも態度だけでも『嘘』というのは存在していて、それはつまり、『嘘』というものが個人個人の心の内に存在しているもの、つまり思考に依存しているということが言えるような気がします。

すれば『嘘』というのものは思考の段階ですでに完結しているものであり、それが他人に知られようが知られまいが、そのこととは無関係であると考えることができます。
だから「私は嘘をつかない」と平然と言える人というのは、いったいどういう思考をしているのだろうかすばらしい聖人君子ではないか。

々色んなことがあって、色んな悩ましい状況というものは自分が意図しなくとも降りかかってくるものです。
特に生きていれば自分の領域に他人が土足で踏み込んでくることもあります。
その他人に対して「私の領域に1ミリでも入ってくんな!」と全て言えるでしょうか。
きっと、愛想笑いで面倒事が去っていくのを待つ、という対策を取ることのほうが多かったりするのではないでしょうか。
この行為はその相手に対して、果たして『嘘』にならないのだろうか、と考えると、その対象の相手に対してはやっぱり『嘘』になると思うのです。

まりは、『嘘』というのものは人間的な生活をしていれば無意識的に常に発動しているものであって、さして特別扱いするようなものではないと僕は思うのです。

局、『嘘をついてはいけない』という先入観は、自分に迷惑がかかるから、自分に不都合だから、という大前提があって、であればこそ他人に対してもすべきではない、という論が成立するわけであって。その類の『嘘』に対してのみ、禁忌事項とすべきなのではないかな、なんて思うのです。これは『なぜ人殺しがいけないことなのか?』という犯罪禁忌の論理と本質を同じにするところなのではないかな、なんて。

およそ『嘘』というものはひとくくりに語られ、ともすれば『思いやりがゆえの嘘』ですら、発覚したときに糾弾する人がいるというのは、悲しいことだなぁなんて思います。

からそれがどんな類の『嘘』なのか。
その『嘘』の動機はなんなのか、ということを考えることが大切であって、大前提、それができるというのは『嘘はいけないこと』という先入観を持たないことだと思います。

入観というものは自動フィルターのような性質を持っており、いちいち考えなくとも判断を下すことができる、という効能を持っています。つまりは、先入観を持っていては『嘘』についていちいち疑問を持つという行為を省略し、そのことに対して思慮することもなくすぐさま結論に繋げてしまうことになります。

て、エイプリルフールでなくとも周囲に配慮した有意義な『嘘』ならば、むしろ歓迎すべきものではないかな、なんて思います。
ただし、嘘をつく場合、それ相応の広い視点での考察が必要であり、つまり嘘をつくことは正直でいることよりも深く思慮しなければならりません。頭を使うので、脳トレなんかしなくとも脳の運動になります(笑)

囲にとって有意義な嘘をつける人というのはかなり頭のいい人だ、というのが僕が周囲を観察して思うこと。
はてさて僕は周囲にとってプラスをもたらせる嘘をどれだけつけるでしょうか。レッツ脳トレっ!!
はてさて乃之楽章氏は周囲にとって楽しめる、エンタメという名の嘘をどれだけ創造することができるでしょうか。いや、そこは普通にガンバレヨっ!!
(2019.4.1-typewrite)