のらのぷくぷく日常vol.18~文章を芸術足り得るものにするのは至難~




ット媒体というものが主流となって、エンターテイメント業界の流れが大きく変化したのは今となっては昔の話。
などと言えば、業界の見識者であるかのような発言になってしまいますが、僕は、そんなに詳しくは知りません。
ただ、僕の目に見える範囲だけでもかなり違ってきたなぁということが分かるくらいにはそれなりの変遷があったのでしょう。
たとえば、紙媒体の書籍はほぼなくなるだろう、と言われて久しいですね。
しかし未だ紙媒体の書物が根強く生き残っているのは『本』というモノが必ずしも『中身』だけを売る物ではなかった、パッケージそのものにも価値があると感じている人が多くいたということだったり。
しかしそうは言っても、電子書籍と紙媒体書籍とのシェアの差は今後どんどん広がり、やはり電子化が主流になるのは確実だろうと思います。
ここで僕としては、では電子書籍を楽しめば良い、そちらに慣れれば良いだけ、というユーザー側の感受だけでは済みません。
いろいろ考えてしまうもので。
電子化することで何が衰退し、代わりに何が隆盛を迎え、その他どういった変化が訪れるのだろうか、という想定。
この想定の中身について、ここで詳しく述べることはしませんが、それにより今後は以前と同じやり方は効果的ではなくなる、つまり新しい、あるいは今は主流ではない方法を取る方が高い価値を生み出せるのではないか、なんて思うわけで。
上記した例えはあくまでも書籍についてですが、これは他のあらゆるエンタメ媒体にも言えることで、それらを含め何が必要なのかを考えた結果が『コラボアートラボラトリ―(仮)』だったのです。
『コラボアートラボラトリー(仮)』自体についてはかなり昔から、考えを突き詰めようとしてはいましたが、最近、その大きなヒントを得る機会があり、それにより具体性が見えてきた、そしてモチベーションが大きく向上したというわけです。
少なからずブログにこういった文章を掲載するくらいには。
想定している規模は決して大きなものではありませんが(※というより規模の拡大戦略は前時代的)、これは一種の事業計画であり、つまりはマネジメントでもあるわけです。準備に相応の時間を必要としますから、かなり早い段階から水面下でスタートを切る必要があるでしょう。
僕は根が企画的、演出的な性質なのかして、こういう事業案を考えるのがとても楽しい♪ そして、がんばるんばっ(‘ω’)ノ

都アートダイブに行ってきました(詳細は前回のブログ記事にて➡ここをクリック♪
コラボアートラボラトリー(仮)に向けた活動の一環とも言えます。
そのため多くアーティストさんとお話をして、いろんなことを学ぼうと考えての打算(笑)
よって話しかける内容も、制作者視点での具体的な質問をすることも多く『同業ですか?』と問い返されることが多かったです。
ただ、そうなると相手もこちらに興味を持つことになりますから会話が弾みやすくなるし、アーティストさんによっては、今自分が行っていることが『仕事』に繋げられていないことにヤキモキしている方もおられて、そのへんで同調したり(笑)

変わって、アートフェスに行って特に感じたことは、視覚的なアートの強さ、でしょうか。
何をもってして『アート』とするのか、というテーマで考えると、どんなものでも視覚的に『形』を示してさえいれば『アート』と主張することが極論可能であるし、受け手も『そうかそうかアートなのか』と納得しやすい。
いっぽう、僕が扱う『文章』も芸術に組み込まれることがあります(※僕が書く文章という意味ではない、決して)。しかしアートダイブで出会ったような視覚的アートに触れると『文章』は芸術ではないな、とどうしても思ってしまいます。
というのも文章の場合は視覚的な要素はなく、あくまでも『思考的』なんですよね。
その思考とは、受け手の頭の中にしかないものであり、よってどんな文章を書こうとも、それが万人に対しての普遍的な『形』として示すことが不可能なのです。
どんな美文を書こうとも、それを『美文』として認識してくれなければ、大衆がそれぞれ毎日行っているメール文章となんら変わりないのです。否、それ以下になることも珍しいことではないわけでして。
ではなぜ文章が『芸術』に組み込まれることがあるのか、と言うと、特別的に持ち上げられる文章が存在するから。
その特別視は何に依存しているのかと言えば、『書いた人が誰なのか』というところが大きいように観測されます。
誰が書いたかで芸術か否かが分かれてしまうものが、果たして純粋に芸術と言えるのかどうか。
たとえば大作家・東野圭吾さんがあなただけのために100文字の文章を書いてくれる、なんて企画があったとすれば、その100文字に芸術的価値を感じられる人は多くいるでしょう。
しかしそれが山下崎鹿路という無名の作家ならばどうか。
この2者の文章が1文字とて違いのない美文だったとしても、認識のされかたは雲泥の差。
要するに、文章は文章そのものに芸術価値を持つものではなく、書いた人そのものが芸術的価値を持つものと考えたとしても暴論とはならないはず。
たとえばコラボアートラボラトリー(仮)は、基本的にはすでに市民権を得ているようなアーティストを扱う事業計画ではないため、文筆家をアーティストとして後押しすることは難しいな、と考えています。先に述べたことを考えると矛盾しますから。
では文筆家をラボに加えて(※つまり、まず僕自身)、アーティストとして推す場合、そのためには、何らかの視覚化が命題となるわけで。
どうすればそういった『文筆』の視覚化の方法があるのか。
何かないかな。
こんなことを考えながら今を生きております乃楽です(笑)
というか、この記事を書きあげてアップするの忘れてまひたっ(≧◇≦)テヘ
(2019.4.16-typewrite)