【ダイアリ】城平京さんの蛙の小説とか。

いつ買ったのかは覚えていないけれど、電子書籍ライブラリにあるものを気分に任せて開く。今回もそのひとつ。
城平京さんと言えば、絶園のテンペストの原作者。
今は虚構推理が大人気。
もちろん愛読中。

そんな城平京さんの、蛙の小説を読んだ。
数多くある城平京さんの小説の中で、蛙の小説を選んだ理由は表紙の絵の雰囲気が好み、というところ。
知らない作家さんの物語ではないのである。
あらすじなどで吟味する必要がない。それ以外のところのフィーリングで選んで良いのである。
極論、作家名で絞り込んだライブラリを開き、目を閉じ、適当にタッチして開いた本を読んでも良いくらい。

僕は、物語の感想はなるべく言わないようにしている。
言うと、良い意味での感想はイコール『おすすめ』と誤解されるし、良くない意味での感想はイコール『批判』と誤解されるから。
本をどう感じるのかは、その人のみが持っている感性を通してしかわからないのだ。
あてにされてはたまらないし、頼りにされてもその答えを導き出すことは不可能。

もちろん、感想らしきものを言ってしまうことはある。
物事に対してどう感じるのか、というのは文章を書く上では避けて通れない要素なのだ。
こうしてブログで名前を挙げるというだけでも、ある意味での感想を表しているとも言えなくはないのだ。少なくとも僕が抱く感情の方向性は示してしまうことになる。

たとえば、今回『城平京さん』という名前を出しただけで、好意的という感情の方向性はバレることになる。

いかにせよ、僕が肯定的に感じることに対して、批判的に思う人もいる。だからといって、その批判する感性を否定したくはない。
僕が思うがままに肯定の意を示すということは、同時に批判する人の感性を迂遠ながら否定する意味を少なからず持つ。
また逆に、僕が批判的に感じるものでも、それが大好きだという人は必ずいる。
僕が批判を示すということは、その人の好意的な感性を否定することにも繋がる。
たとえば、「あんなまずいラーメン屋、あり得ない!!」と平然と批判する人は少なくない。
そんな「あり得ない」ものを大好きな人がどこかに必ずいるのである。

人は、それぞれ自由に思いを抱くことが許されている。僕が自由に感想を思い抱いて良いのに、他の人は僕と違う感想を抱いてはならないとなれば、お前何様だとなる。
いずれにせよ感情を示すことで生まれる状況的結果は、とても面倒くさいものだという認識がある人なんです、僕。

そんなわけで、周囲がどう感じるのか、というのを物事の良し悪しの判断基準にしないよう心掛けている。
100人中僕だけが好きということがある。
つまり99人が大嫌いだということになる。
じゃあ僕はそれに物怖じして、僕も嫌いになろうとはならない。
僕の好きには周囲の感性は何の影響も及ぼさない。

他人の好き嫌いが、僕の好き嫌いになぜ影響するのかわからない。
けれど、世の中の多くの人が、他人の好き嫌いが、自分の好き嫌いの物差しになってしまうようだ。
なぜだろう。

すでに「美味しい」「面白い」と抱いた感情だというのに、周りが「不味い」「面白くない」と言うだけでそんな簡単に変化するものなのだろうか。
そもそも対象物は、周囲が感想を言う前であろうと後であろうと何も変化していないのだ。
なのに、周囲の感想を聞く前後で評価が変わるというのは不思議なことだと思う。

周囲の感性の影響を受けること。
それを協調性と呼ぶのならば、なるほど僕は協調性がない。

社会では協調性があることは良いこととされている。
就職活動なんかしていれば、何かと協調性の重要性が語られる。
けれど、協調性なんて持ちたいと思わない。協調性を持って生まれてこなかったことに微塵の文句もない。
周囲が、その他大勢の感性に振り回されているのを見るたびに、そんなもの持って生まれてこなくて良かったなと思う。

ま、とはいえ事なかれ主義でもあるので、いろんな場所で協調性があるフリはするけれど(笑) その方が面倒事を避けることができるというのもまた事実なのだ。
けれど、そんなフリを見抜く人が稀にいる。
親しげにしてるくせに全然心を開いていない。
演技だろう。
と。

大正解!! そういう人に対しては、徐々に心を開くようになる傾向にあるようです、僕ってば。
(2020.05.09-nonora.typewrite)